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西村賢太追悼文集

西村賢太先生ファンの方には説明不要だと思うが、【西村賢太追悼文集】とは先生と生前親交のあった関係者から一般の読者まで、幅広い方々が寄稿した先生への追悼文をまとめた一冊である。

私自身、毎日のように西村賢太に関することをXで呟いたり、このnoteにも何度か書いたりしておきながら、実は【西村賢太追悼文集】はついこの前まで未読であった。
絶版になってしまった先生の作品を集めることと復読をついつい優先してしまい、いつでも読める文集(失礼極まりない)を後回しにしてしまったというのが理由の一つではあるのだが、
それよりも大きな理由があった。

この文集を読むことで、先生がこの世にもういないという強い実感を持つのが怖かったのだ。
先生の遺作【雨滴は続く】は当然もう読んでいるのだが、巻末に収録された葛山久子さんの特別原稿を読み終えた時、私は大きな喪失感と虚無感に苛まれた。
先生はもういない、二度と会うことはできないという事実に直面したような気持ちになり、何度も涙を流した。
そして、どうして先生が亡くなる前に作品を読んでいなかったのかという後悔にも襲われた。
文集を読むことで、あの頃の痛みを再び味わうことが怖くて、どうしても開くことを躊躇ってしまったのである。

しかし、先日ついに追悼文集を開いた。
丸々一晩使って噛み締めるようにページを捲り最後まで読み終えた時、私はやはり後悔した。
否、読んだことを後悔したのではない。
どうしてもっと早く読まなかったのかと自分を責めたのだ。
喪失感に襲われたくないだの、実感するのが怖いだのとそれらしい正論を並べ立ててこの追悼文集を読むのを後回しにしていた自分を蹴殺してやりたくなった。
そう思ってしまう程、この追悼文集は素晴らしい一冊だった。

該書を出版したCOTOGOTOBOOKSの木村綾子さんは、あとがきで以下のように記している。

「本を開けばいつでも、誰かにとっての西村賢太に触れられるような一冊。
作家も出版関係者も、西村さんが生前親しくされていた方も、そして読者も、好き好きに声を持ち寄り集まった、いつまでも終わらない賑やかなお通夜のような場所を作れたならー。」

該書の魅力はこの一文に全て詰まっているので私ごときが説明するだけ無駄なのだが、それでも何か書きたい、と思ってしまう程に素晴らしい一冊だったのだ。

以前noteに書いた通り、私は約一年前に【苦役列車】を初めて読み、そこで衝撃を受けてから今日まで作品をちまちまと買い集め、読み続ける生活を送ってきた。
先生がよく行っていた場所に行ったり、先生を知る方に話を聞いたりもしているのだが、如何せんファン歴がまだ浅く、亡くなってからファンになった身ではあるので先生については分からないことだらけである。
これは私に限ったことではないと思うが、
「北町貫多」のことは多少分かっても、
「西村賢太」については殆ど何も知らない。
私小説はあくまでも私「小説」であるということを先生は常々言っていたし、テレビや雑誌のインタビュー等でもその場の流れで発言をしていたような印象があるから、先生のパーソナルな部分はあまり知らない読者が多いのではないか。

そんな我々読者にとって、この追悼文集はとても有難い一冊になっている。
関係者の方々のエピソードを通じて先生の人柄を少しだけ覗き見することができるのだ。
新庄耕さんに「シンちゃん、直木賞取れよ」と激励した話、文学研究者の花澤哲文さんとのエピソード、小説にも出てきた朝日書林で女の子に惚れる話、信濃八太郎さんの父が書いた紙を大切に持ち帰った話、玉袋筋太郎さんとの関係性、古本屋時代の話。
挙げればキリがないが、沢山の方からのエピソードを通じて先生のことがほんの少しだけ分かった気がする。
実際に先生と親交のあった方々からのエピソードがここまで凝縮されているというだけで、この一冊はファンにとって至極貴重な一冊であり、重要な資料にもなるだろう。

そして、一般の読者から寄せられた追悼文も先生への凄まじい愛と熱量を感じる名文が沢山あった。
こちらも挙げるとキリがないので具体例は割愛するが、読者からの追悼文の数々を読んでいて気付いたことがある。
それは、追悼文として先生の作品への想いを語る上で、多くの読者が自分の人生を開示しているということだ。

北町貫多のように自分にも学歴がないことや、大きな失恋をした時に先生の作品に出会ったこと、仕事に悩みながら帰り道に読んでいたことなど、ただ単に先生の作品の面白さや魅力を語るだけでなく、なかなか人に言えないような悩みや当時の苦悩を開示しながら先生への想いを綴っているのだ。
それ程先生の作品には人を救うエネルギーがあるいうことだと思うし、先生の作品は単純に娯楽として読んでいる読者よりも、どこか自分と貫多を重ね合わせながら、自分の人生を支えるお守りのように読んでいる読者が多かったのではないかと追悼文を読んで思った。

残念ながらこの追悼文集の企画に私は参加できなかったが(当時は読者ではなかったため)、もし私が追悼文を書くとしても、きっと自分の人生を開示しながら先生への想いを綴ったと思う。自分の人生が先生の作品によってどれだけ救われたかを書いたと思う。

先生の作品の魅力を語る上でよく文体や語彙、文章のうまさや構成の巧みさなどが挙げられるが、それだけではどうしても語りきれない。
自分の心の傷に染み込んでくるような、ぐらぐらの足元をギリギリの所で支えてくれるようなあの感覚こそが、先生の作品の一番の魅力なのだ。
だからこそ多くの読者が自分の人生を開示した追悼文を書いたのだと思う。
何かを批評する上で自我を出すことは批判されがちだが、先生の作品の場合はそれでいい。
むしろ、自分語りをしなければ先生の作品の魅力は語りきれない。


この追悼文集は単なる先生への想いが綴られた一冊ではない。
先生に携わった方々と、先生の作品を愛した方々の生きた証が確と刻まれた一冊だ。




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