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文学とキモさ

村上春樹がキモいという件がXで話題になっている。
無論、村上春樹の人格ではなく作品が、描写がキモいという話である。

私は村上春樹の作品は読んだ事がないのでどういった部分が気持ち悪いのかは全く分からないが、きっと何作読んだところで「キモい」という感想は抱かないと思う。
正確に言うならば、「キモい」と思ったとしても、その後に「これでこそ小説だよな」という感想を抱くと思う。
私は人並みに読書をする方ではあるが、
約1年前からは物故私小説家である西村賢太先生の作品しか読んでいないし、読書の幅も広い訳では無い。
故に、立派な文学論なぞを語ることが出来る身分でも立場でもないのだが、それでも今まで小説を読んできて、自分なりの小説像みたいなものはある。

それは、気持ち悪さこそが文学であり、文学は気持ち悪くてなんぼだということだ。
誰もが考えていること、皆が平生話していること、誰にでも言えることを小説にしたところで何も面白くはない。
誰にも話せないような気持ち悪いことを、人に言ったら馬鹿にされ、批判されるような事を小説にするからこそ価値があるし、だからこそ人は文学に救われるのだと思う。
私が西村賢太先生の作品にのめり込んだのもそうだ。
今までは「人に言ってはいけない」「隠さなければいけない」と思っていた考えや行動を先生はいとも容易く言葉にし、剥き出しの文章で殴ってくれたからこそ感動したし、だからこそ共感以上の感覚を覚えたのだ。
ここまで馬鹿で、愚かで、情けなくて、恥ずかしくてもいいのか、と心を軽くしてもらったのだ。

小説は道徳の教科書でも自己啓発本でもないのだから、いい子で真っ当なことばかり書かれていたら意味がない。
ワイドショーのコメンテーターじゃないのだから、正しいことだけを書く必要は全くない。
むしろ、どれだけ間違っていてもいいと教えてくれる小説が私は好きなのだ。


22歳の世間知らずな若造が云うのもおかしな話だが、昨今は「正しいこと」が重要視されすぎている気がする。
何か間違ったことをするとすぐに叩かれる。
気持ち悪いとばかにされる。
ダサいと冷笑される。
何をやってるんだと炎上する。
批判する側が正しいのは前提として、その正義の盾の中に大切な何かを置き忘れてしまっている気がしてならない。
「正しさ」はもう現実世界で懲り懲りだから、せめて小説の中だけでも「正しさ」「清さ」「真っ当さ」から解放されたい。
気持ち悪い小説を沢山読みたい。
馬鹿みたいな小説を沢山読みたい。
テレビで読み上げたら炎上してしまうような小説を死ぬまで読んでいたい。


テレビやラジオなどのエンターテインメントさえコンプライアンスが厳しくなっている今日だが、文学だけはいつまでも治外法権であって欲しいと心から願う。
文学さえ正しさを求められてしまったら、
いつも気持ち悪いことばかりを考え、正しくないことばかりをしてしまう自分のような人間はどこを心の拠り所にすればいいのか。
文学さえ気持ち悪くなくなってしまったら、
自分は何に救いを求めればいいのか。


ここまでで既に分かったかもしれないが、
私はSNSに小説家の真似事にすらなっていない便所の落書きレベルのポエムみたようなもの書くことがあるが、そうすると当然「気持ち悪い」と批判されることもある。
しかし、私は「気持ち悪い」と言われるのが実はあまり嫌いではない。
むしろ、少し嬉しい。

先述したように、「気持ち悪さ」こそが文学であり、文学とは気持ち悪くてなんぼだと思っているからである。

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