私の大学受験 Ⅱ(終)
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私の大学受験 Ⅰ
前回は、公募推薦受験について書いた。
今回は、その後を書いてみようと思う。
公募推薦に落ちた時にはもう12月で、センター試験までもう1か月ほどしかなかった。受験科目は国英社の3科目。国語と英語は、そこから伸ばすには時間が足りなかった。
幸い、公募推薦を考える前は一般受験を目指していたので、英検を取得していた。外部試験利用ができる大学では、ものによっては満点になったり、低くても8割くらいは保証されていた。国語の成績も悪くはなかったが、こちらもセンター模試で8割程度。難関私大の一般入試に耐えうる知識は無かった。
それからは、もう今更国語と英語をやっても仕方ないと、どうせなら世界史をやろうと振り切った。何しろセンター模試でさえ7割に届かなかったし、やってもやっても終わりが見えなかった。それでもやっていたのは、点数如何に関わらず、好きだったからだ。世界史に触れている時間は、「落ちたらどうしよう」「私はこんなこともできないんだ」と落ち込まずに済んだ。
冬休みに入っても、気分は落ち込んだままだった。家では集中できないと早々に見切りをつけ、大みそかまで学校の自習室に通った。正月は毎年祖母の家に集まっていたが、推薦に落ちたことを慰められるのが嫌で、行かなかった。三が日が終わって学校が開くようになったら、また自習室に通った。人はまばらだったが、それでもクラスの何人かは来て勉強していた。
その頃にはもう、受験校を最終決定しなければならなくなった。不安定な成績で、行きたい大学も堂々と言えないような状態だった。進路指導の先生や担任の先生と何度も面談し、受験校は増えたり減ったりした。不安でどうしようもなくて、受かるはずのないレベルの大学に、それでももしかしたらチャンスがあるかもしれないと望みをかけ、出願をした。わがままを許し、最大限のサポートをしてくれた両親には、感謝してもしきれない。自分がもっと勉強して、自分の立ち位置をしっかり分かって高望みしなければ、受験にかかる費用は三分の一で済んだはずだった。中途半端な勉強をし、それでも許してくれると甘えていたのだ。
センター試験の前日、高校3年生を集めて激励会が行われた。何を話していたのかはほぼ記憶にないのだが、サプライズで以前教わって既に退職された先生が来てくれて、感動したことだけは覚えている。その先生は群馬から遠く離れて京都にいると聞いていたので、おそらくはその会のためだけに群馬に来てくれたのだろう。
激励会が終わり、放課になったので荷物を持とうとした。その時、とある先生が近寄ってきた。推薦入試の際には面接練習でお世話になり、授業でも同じ科目を3年間持ってくださった先生だ。白髪で、優し気な面持ちと柔らかい声を持つ、祖父のような感じの方だった。その先生は一言「がんばれよ」と言って、背中をたたいてくれた。たったそれだけのことだったが、なんだか涙があふれてきた。私のためにそばに来てくれて、声をかけてくれたことが、本当に嬉しかった。
幸運なことに、センター試験の会場は高校の系列の大学だった。いつもと同じ電車に、いつもと同じ友人と乗った。何かあったらと心配して、父は車で送って行こうとしてくれた。だが私は、こういう時こそ「いつも通り」を崩したくなかった。制服を着て、いったん教室に寄った。そこには緊張した面持ちの友人が数人席におり、暗い中で話をしていた。さすがに勉強をする精神力はなく、私も少し話した後、教室を出て会場に向かった。
門のところには、担任の先生と他の応援の先生が待っていてくれた。会話もそこそこにして会場に入ると、ものものしい雰囲気に包まれていた。席を確認し、着席する。しかしどうにも落ち着かない。他の子に話しかけるにも、何か邪魔をしてしまったらと思うと声を掛けられなかった。いたずらに少し散歩をしてみたり、家族と連絡を取ってみたりしたが、何をしても落ち着くことはなかった。参考書を開いても、目は紙の上を滑っていくだけで何も頭に入ってこなかった。
1教科目は、確か国語だったと思う。問題文を読み、ところどころ線を引きながら問題と照らし合わせる。評論は、意味を違えないように気を付けて解く。小説はけっこう得意だったから、ペースを速めに。古文と漢文はあまり対策に時間を掛けられなかった。意味は分からずとも、なんとかある知識で乗り越えるしかない。
2教科目は、世界史だった。大好きだったが、一番点数が取れない。覚えた替え歌を頭で反芻しながら、解き進めていった。
最後は英語だ。リスニングは、まあまあ自信がある。目を閉じ、全神経を耳に集中させた。問題文を先読みしながら、解いていく。筆記の方は、長文問題から解いた。担任の英語の先生に「脳に糖分が残っているうちに大変な問題をやってしまったほうがいい」と言われてからは、模試でもその順番で解くようにしていた。
少し時間を戻し、世界史を説いている時のことを話そう。私は、見直しの時に分かりやすいように、答えに迷った問題には印をつけていた。世界史は毎年30問強出題される。そのとき、私の問題用紙には10個の印がついていた。だいたいは二択までしぼって悩んだものだ。さて、どうすべきか。このセンター試験で、私の命運は決まる。一般入試では、数多の大学の数多の学部学科に出願したが、正直どれも難しい。となれば、このセンター試験に賭けるしかなかった。10問は、単純計算で30点分に該当する。こういう時は、変えたらそっちが間違っていたということが多い。そのままにすべきか、いや、変えるべきか。私はしばらく、考え込んだ。
30問ほどの問題数に対し、与えられる時間は60分だ。数学のように計算が必要なわけでもなく、単純に覚えているかどうかが問題となる社会科の試験は、合っていても合っていなくても大抵は30分ほど時間があまる。なので、考える時間はたくさんあった。例えば変えない今の状態で90点だとしたら、変えた場合60点になる。そうなれば、国語と英語でいくら点数をとっても意味がない。逆に今60点で変えたら90点になるのであれば、変えない手はない。ただ、どれが正解なのか、私は全く確信が持てなかった。
終了5分前になり、私は大きな賭けに出ることにした。二択で悩んでいた10問すべてを、もう一方のほうに答えを変えたのだ。
何でもいい。「試験」というものはこの世にありふれている。その中の解答のうちの三分の一をすべて変えるというのは、正気の沙汰とは思えない。何かしら試験を受けたことがある人は、その狂気を分かってもらえるのではないだろうか。大学受験を経験した方ならばなおさらだ。プラスに働くにしろマイナスに働くにしろ、その30点が人生を大きく左右するのだから。
そうして結局、私は都内の'いわゆる'難関大学で大学生をしている。
そう、あのときの「30点」はいい方向に働いたようだった。国語は8割を少し切ってしまったが、英語と世界史で9割を取れたので、なんとか首の皮一枚つながったのだ。
一般受験のほうは、惨敗だった。わがままで受験して、中途半端な勉強しかしてこなかったことを死ぬほど後悔した。受験だけで、いったいどれほど掛ったのだろう。悩む私に、それでも「自分で決めなさい」と両親は言ってくれた。姉もたくさん応援してくれた。自身が国家試験を控えていたにも関わらず、手紙を書いてくれたり、直前までメッセージをくれたりした。友人ももちろん、一緒に励まし合った大切な存在だ。つくづく、人間というものは1人では立っていられないものだと痛感する。
「大学で人生は決まらない」という言葉を、よく見る。
大学受験を経て就活も経験した今の私には、その言葉は正しくないように思われた。大学で、その後の人生は'ある程度'決まりうるものだ。就活には学歴フィルターがあるし、学ぶ分野や環境は、上位の学校の方が整っている。だた、そこからどう生きるかは結局自分次第だ。
国立大学に通っていても、ろくに授業に出ずに遊び歩いている人もいるだろう。地方の私大に通っていても、まじめに授業に出席して、知識を身に着けている人もいる。ただ、遊び歩いている大学生も、その過程で人と出会い、何か自分なりの道を見つけるかもしれない。例えば起業して年商1億の会社社長になれば、大学でまともに授業に出ていなかったと言っても笑い話になる。結局は、自分が何を「選び」、その過程でどう「変化」するかだ。
あなたは、今日が人生最後の日だとしても、その行動をするだろうか。
その瞬間を、あなたはどう生きるだろうか。
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