タナトスとしてのゴジラ 〜"0"の続編としての−1.0〜
こちらでは初投稿。ずーっと長らく永遠の記事"ゼロ"状態だったのでマイナスワン地上波初放送を記念してゴジラ−1.0の考察をしていきたいと思います。
今回の考察では本作ゴジラに隠されたメタファーとは何か?そして同じ山崎貴監督作品の『永遠の0』を交えてメインに考えていきます。
オルタナティブ"永遠のゼロ"としてのマイナスワン
本作は特攻作戦から逃げた男、敷島浩一が小笠原諸島の大戸島飛行場に不時着するところから始まる。
大戸島守備隊の整備兵、橘宗作は敷島が搭乗していた機体のチェックを行うが彼が報告したような故障箇所はどこにも見当たらなかった。橘は敷島の虚偽の故障報告の真意をすぐに見抜き、特攻から逃げた彼を非難も追求もしなかった。敗戦濃厚な戦争で無駄に命を散らす必要もない、その慮る彼の描写から軍の規律や命令を絶対としない思慮深い性格の人物だとわかる。
敷島も橘も戦時下においてもあくまで"生き残る"を選ぶキャラクターなのだ。
悲劇はその夜に起きた。
大戸島に古くから伝わる謎の巨大生物"呉璽羅"が突然現れ大戸島守備隊を急襲した。
橘は敷島に特攻機のゼロ戦20ミリ機銃を使いゴジラを撃退することを立案するが、敷島は恐怖にすくみ撃退の機会を逃してしまう。その結果、敷島と橘を除く大戸島守備隊は呉璽羅によって殺害され全滅、橘は敷島に対し「お前があの時撃たなかったからみんな死んだんだぞ!」と怒りの形相で責め立てた。
本国へと帰る船の中で橘は敷島に死んだ仲間たちの写真を渡し立ち去る。それは自身が償わなければならない罪の十字架として後々まで敷島を苦しませることになるのである。
この、罪の意識を背負うことになった敷島を見た瞬間、私は山崎貴同監督の『永遠の0』に登場する宮部久蔵を思い出したのだ。
『永遠の0』もまた生と特攻がテーマであり、生きて家族の元へ帰ることを願いながら特攻を志願するしかなかった男の足跡を辿る物語である。
主人公である宮部久蔵は卓越した操縦技術を持つ優れた航空兵であったが必ず生きて帰ることを信条とし、周りからは"臆病者"としてのレッテルを貼られていた。宮部は自分だけではなく自身が教官として教える訓練生の命をも重んじ、その厳しさと優しさは全て訓練生に生き延びるため、無事帰還させるためのものだった。
妻を誰よりも愛し、妻との約束を必ず守ると願う宮部。だが戦況は悪化の一路を辿り訓練も半ばに切り上げられた自分の教え子たちが次々と特攻で命を落としていく様を目の当たりにし自身の無力さと罪の意識に打ちのめされ、ついに自ら特攻を志願する。
特攻へと飛び立つ日、宮部は自身の機体の故障をいち早く見抜き交換を申し出た。後の世を生き抜き自分の家族を守って欲しいという思いを一人の飛行兵に託し、故障による生還の可能性に賭けたのだった。
こうして『永遠の0』宮部久蔵の物語は特攻により幕を閉じる。最期の刹那、ほくそ笑む彼の脳裏によぎる感情は如何様なものだったのだろうか?それは今もなお様々な解釈がなされてる。
しかし、もし宮部久蔵が"臆病者"であり続けたなら?
エンジントラブルを起こして不時着を余儀なくされたなら?
教え子たちの死による罪の意識を背負わなければ?
そのIFからゴジラ−1.0の物語が幕を開ける。
敷島浩一=生きて抗い続ける宮部久蔵
特攻から逃げた宮部(敷島)、それは『永遠の0』が用意した終局(死)からの逃亡として見たらどうだろうか?
機体の故障という虚偽の報告をし架空の島、大戸島へ不時着した宮部久蔵(敷島浩一)。だがそこにも死の影は忍び寄る。0(無)への結末を拒絶し虚構の地に降り立った特攻兵に"死"は虚構のカタチを纏って襲いかかる。
ゴジラはタナトス(死の衝動)のメタファー
大戸島に初めて姿を現した時から敷島にとってゴジラは死を象徴するものだった。
特攻から逃げた先も、本国へ帰り幸せな家族を築きかけた先にも死(ゴジラ)は現れる。
思い返して欲しい。敷島が死の恐怖や罪の意識の束縛から解かれ、生への希望を抱き始める時、ゴジラは彼の前に姿を現し、死の衝動を呼び起こすのだ。ゴジラ自身が死にたくとも死ねない不死身の存在であり、その永遠の苦痛を終わらせるため彷徨う死をもたらし死の衝動を抱える存在でもある。
自身のせいで大戸島の仲間たちが死に、そして身を挺して守ってくれた典子までも失った時、敷島は生きて幸福を掴むことを諦めた。
橘が渡した守備隊たちの家族の写真を前に自嘲する。甘い夢を見ていたのだと。
この瞬間、敷島は特攻を決めた宮部久蔵となりゴジラと差し違える覚悟、0(無)へと帰する決心をする。
"0"(ゼロ)に抗う"−1"(マイナスワン)
マイナスワンとはどう言う意味だろうか?
公式の情報によると
戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす
とある。ではなぜ−1ではなく−1.0という記述にしたのだろうか?
この疑問を『永遠の0』の延長線上のゴジラマイナスワンとして考察してみると新たな解釈が出来る。
マイナスワンに付く"0"とは永遠の0が迎える終局のゼロ、特攻による死によって全ての苦しみを無に帰する意味を持ち、"0"の一つ前は"−1"つまり死(無)に至る前の絶望の状態、マイナスな状態と捉えることは出来ないだろうか?
−1.0とは−1→0へと推移することを意味し、
−1マイナスワンで踏みとどまる。つまり絶望的な状態であろうとも"0"に抗う、それはつまり映画のキャッチコピーにある"生きて抗え"に通ずるのではないだろうか?
敷島は戦後を生きた。命を軽んじる宮部が生きた戦下とは違い、多くの人の縁の力により命を繋ぎとめ最愛の妻ともいえる女性の元へ帰ることが出来た。マイナスな状況で生きて抗い続けたからだ。
だが死(ゴジラ)は死なず。生の欲求あるところに死の欲動の影は現れる。
典子の首元にうごめく影は生き延びた特攻兵を再び"0"へと誘うのか…。