手話歌にNO! 健聴者に誤解される聴覚障害文化とアイデンティティ
私は耳が聞こえない・目が見えない人が通う(キャンパスは別)筑波技術大学の元学生で、現在は放送大学学生の近藤 史一です。
今回は、筑波技術大学の学園祭に手話歌がないということについて、私の考えを述べたいと思います。
私の結論は、手話歌をやめることで、聴覚障害者のコミュニティやアイデンティティを守ることができるということです。
筑波技術大学について
まず、私がかつて通っていた筑波技術大学とはどんな大学なのでしょうか。筑波技術大学は、日本で唯一の障害者専門の国立大学です。聴覚障害者や視覚障害者だけが学ぶことができます。聴覚障害者と視覚障害者でキャンパスは分かれているのであまり接点はありません。また、一部の教員や事務職の方も同じ障害を持っており、手話はもちろん点字などのコミュニケーション手段が豊富に用意されています。筑波技術大学は、障害者に対する教育や研究に力を入れており、障害者の社会参加や自立を支援しています。
筑波技術大学では、毎年10月に学園祭(天龍祭)が開催されます。しかし、この学園祭には手話歌がありません。手話歌とは、音楽に合わせて手話で歌うことです。手話歌は、聴覚障害者が歌を楽しむことができる表現方法です。しかし、聴覚障害を持つ私はこの表現方法に疑問を持っています。なぜなら、手話歌は健聴者に聴覚障害者について誤解を与えてしまうものだからです。
では、なぜ手話歌は健聴者に誤解を与えてしまうのでしょうか。私はその理由を3つ考えました。
1つ目の理由
手話歌は音楽に依存していることです。手話歌は音楽に合わせて手話で歌うことですが、これは音楽があって初めて成り立つものです。しかし、聴覚障害者の中には音楽を全く聞こえない人もいます。また、音楽を聞くことができる聴覚障害者でも、音楽に対する感性や教育が十分でない人もいます。そもそも聴覚障害者だからほとんどの人は歌そのものに関心がないというのも大きいです。このように、音楽に対する意識や知識があまりない聴覚障害者が音楽に合わせて手話で歌うことは不自然であり、健聴者に「聴覚障害者も歌を楽しめる」という誤った印象を与えてしまいます。
2つ目の理由
手話歌は言語ではないことです。手話歌は手話で歌うことですが、これは言語としての手話を歪めていることです。手話は、聴覚障害者のコミュニティで広く使われている自然言語です。手話には、日本手話や日本語対応手話そして宮窪手話など様々な手話言語が存在します。これらの手話言語は、音楽に合わせて歌うよりも、普通に会話したりろう者自身が手話を使ってポエムとかをすることが重要であると感じます。(言語化が難しい)
こちらが手話ポエムです。
しかし、手話歌では、音楽のリズムやメロディーに従うので手話の動きや表情が制限されやすいです。また、手話歌では、日本手話の文法を無視して音楽に合わせることもあります。このように、手話歌は言語としての手話の特徴や多様性を無視している場合があります。つまり、手話歌は全てが全てではないが場合によって手話そのものの文法に従ってないなどがあり手話を日常的に使う人々に対しものすごく失礼な場合があると思います。
3つ目の理由
手話歌は芸術ではないことです。手話歌は表現方法として芸術的な価値があると考えられるかもしれません。しかし、私はそう思いません。なぜなら、手話歌は手話ではなく手でそれっぽく真似をしているだけであり、聴覚障害者ならではの手話の独自性や創造性がないからです。手話歌は、健聴者が作った音楽に合わせて手話で歌うことですが、これは健聴者の文化や感性に依存していると思います。聴覚障害者は、健聴者の文化や感性を理解できないかもしれませんし、理解したとしても共感できないかもしれません。このように、手話歌は健聴者が一方的に聴覚障害者を楽しませてそれで自分で満足しているということを私は考察しています。
手話歌に関する健聴者への誤解を解く
以上の3つの理由から、手話歌は健聴者に聴覚障害者について誤解を与えてしまうものだと考えられます。しかし、私はこの誤解を解くべきだと思います。なぜなら、誤解が解けることで、聴覚障害者のコミュニティやアイデンティティを守ることができるからです。
まず、誤解が解けることで、聴覚障害者のコミュニティを強化することができます。健聴者が手話歌をやめて、ゲームのBGMや体で味わう太鼓やドラムなどの言葉を使わない曲そして振動や大きな音の方が楽しさを体感できるのではないかと思います。
次に、健聴者が手話歌をやめることで、聴覚障害者のアイデンティティを確立することができて、自分たちの芸術や表現方法を見つけることができます。手話歌ではなく、米山内明宏さんで有名な手話ポエムや手話劇など、手話を使ったオリジナルの芸術や表現方法があります。これらの芸術や表現方法は、聴覚障害者の独自の感性や創造性を発揮することができます。健聴者は、これらの芸術や表現方法とうまく組み合わせながら、聴覚障害者との対話を深めながら健聴者に聴覚障害者の独自性や価値を広めるべきです。
結論
以上のように、手話歌は健聴者に聴覚障害者について誤解を与えてしまうものだと私は考えています。そのため、私は健聴者に手話歌をやめてほしいと思っています。手話があれば歌を楽しめるからと言って、一方的に楽しくもないことを押し付けないでほしいと思います。そして、私は自分たちの聴覚障害のコミュニティやアイデンティティを守ることを望んでいます。手話歌がなくても、聴覚障害者は豊かな文化や表現力を持っています。それを健聴者にも見せることができれば、誤解が解けて、互いに尊重し合える社会ができると信じています。
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