小説 ハグ屋の慶次⑧ 真壁店長と白川菜美
慶次がカフェノワールの店長になってからすでにほぼ1年が経っていた。神城は、沖縄での珈琲栽培に関わっていて、月の半分くらいはそちらに行っているので、カフェ業については慶次がほぼ中心になって働いていた。
常連客の間では、慶次の淹れる珈琲が「前のマスターの味を越えた」なんて無責任な評価が話題に登るくらいに評判がよかった。何より変わったのは、慶次が料理を研究してフードメニューを充実させたことだった。
神城は珈琲の香りの邪魔になると言って、香りの強い料理を嫌ったので、メニューにはトースト類とサンドイッチ、それにクッキー程度のフードしか入れなかった。
しかし、慶次は売り上げを増やしたいと工夫した。
そのために繊細な珈琲の香りの邪魔をしないフードメニューや、珈琲の香りに合うような食事を研究していた。その結果、ハヤシライスや具材たっぷりのナポリタン、豚肉生姜焼き丼、ビーフサラダ、香料を抑えた和風カレーどんぶりなどのメニューを追加して、学生が食事できるように配慮した。
いずれも、仕込みをしておけば早く作れるメニューだったり、具材の保存が効く料理だったのだ。慶次は更に女性客を狙った、スイーツのメニューも増やした。
同じ商店街のベーカリーとコラボして、チーズケーキやチョコレートケーキなどのスイーツも出すようにしたのだ。このスイーツと珈琲のセットメニューはかなり評判になり、狙い通りの効果を上げた。
フードメニューで単価を上げ、ブレンド珈琲のお代わりを安く出してコーヒーの消費量を増やすことで客単価は増え、豆の販売も充実したので、慶次が店長になってからの売り上げを大きく伸ばしいた。
ここまで忙しくなると、慶次ひとりでは回せなくなったので、バイトのシフトを増やした。
午前からランチタイム終了までのシフトと、ランチタイム直前から夕方までのシフトを重ねることでランチタイムを3人で乗り切る体制だった。慶次は大々的にバイトやパートの募集を出した。
応募してきた中に、白川菜美がいた。
彼女は華成女子大の3年生で、心理学科に在籍していた。面接では将来は臨床心理士を目指していると言っていた。
慶次は、迷わず菜美を採用した。
彼女がが心理学を学んでいるということに個人的に興味を持ったことも理由のひとつだ。だが、これに加えて年齢の割に物腰が落ち着いていたことに好感を覚えたのだ。
慶次の卒業した学部は経済学だったが、自分の「あの体験」が原因で、心理学にも興味を持ち始めていた。手が空いた時間帯には豆の選別をしながら、菜美から初歩的な心理学の話しが聞けるのは楽しみだった。
ランチと夕方の合間の時間帯には客が少ない日が多い。そんな時間を慶次は豆の選別作業に充てていた。
「前回聞いた防衛機制の話。もう少し詳しく教えてくれるかな?」豆を選別しながら、慶次が菜美に聞いた。
「フロイトが提唱した概念ですね。個人が不快な感情や思考を感じないようにするための無意識的な対処法です」
菜美にとっても、自分の学んだことを慶次に説明するのは楽しかったし、自分の勉強になる時間だった。
「たしか代表的なものに抑圧、投影、合理化があるって言うことだったよね?」
「はい、抑圧は、不快な感情や記憶を無意識に排除して意識に上らせないメカニズムです」
本を読む時だけかけているメガネをずり上げながら菜美が説明した。
「投影は、自分自身の受け入れがたい感情や特性を他者に転嫁する防衛機制だね。自分の内面的な葛藤や欲求を他人に帰属させることで、自己評価を守る、だっけ?」
「マスターすごいですね。ちゃんとマスターしてる。あ、これ、ダジャレじゃないですよ」
「あはは。シャレとしてもなかなかいいと思うな」と慶次が言うと、菜美は顔を赤らめた。
「3番めの合理化は、自己の行動や感情を事実や論理に基づいて説明し、正当化する防衛機制です。これにより、内面的な葛藤や不快な感情に対処しやすくなります」と菜美が続ける。
「つまり、自分の行動や感情に関して理論的に辻褄を合わせようとする事で、自分の行動を正当化したり、罪悪感を減らす行動なんだね」
「わー、マスター、しっかり理解してますねー。満点をあげます」
慶次は「菜美教授、お礼はクッキーで宜しいですか?」と茶化す。
「クッキー、嬉しいでーす。ジャーからいただきますね」と素直に喜んでいる。慶次は菜美の笑窪が気に入っていた。
「じゃあ、選別を中断して、カフェ・オ・レを作るから、その間にそれぞれの防衛機制の具体例をおしえてよ」と言って、冷蔵庫からミルクを出す。
「そうですねー。抑圧は、家庭内暴力の事例とかが分かりやすいと思います」慶次は頷きながらミルクパンにミルクを注ぐ。
「幼少期に経験したトラウマを残さないために、出来事の記憶を抑圧してしまうんだね」
「ええ、その記憶は思い出せないとか、あるいは意識的に思いださないようにするんですね。でも大人になってからの心理的な問題、例えば、対人関係の障害とか不安障害とかになって顕在化してしまうことがあるんです」
慶次は菜美の話しを聞きながら、ミルクパンをコンロに乗せてから、ペーパーフィルターのフレンチローストに慎重に湯を注ぎ始めた。
粉を膨らませるタイミングでミルクパンを加熱しはじめる。
菜美は一旦、話すのをやめて、慶次の動作に集中した。慶次はスペシャルブレンド珈琲を淹れるときには、ネルドリップに拘るのに、何故かフレンチローストにはペーパーフィルターを使う。菜美はそれを不思議に思っていた。
慶次は膨らんだ粉に更に湯を追加しながら、同時にミルクの加熱具合も見ているのだ。
追加した湯がポットに落ち切る前に、フィルターを外してしまう。と、同時にミルクパンを火から下ろす。沸騰する直前のタイミングだ。
予めセットしておいたスープボウルぐらい大きいカップに、ミルクと珈琲を同時に注いでいく。両者がカップの中でマリアージュして、カフェ・オ・レができあがる。
「いつも思うんですけど、マスターのこの動作って、ホントにセクシーですねぇ」
「あはは。見事!とはよく言われるけど、セクシーをいただいたのは菜美ちゃんが初めてだな。さあ、冷めないうちにどうぞ」と、ソーサーごと菜美の前に押し出してサーブした。
菜美は両手でカップを持った。両手でツマミとその反対側を支えないと持てないくらいにカップが大きいからだ。菜美はこのボウルのようなカップが好きだった。慶次は、菜美のその仕草を可愛いと思って眺める。
視線に気づいた菜美は、カップを置いてから言った。
「そんなにジーッと見られてたら恥ずかしくて飲めません!マスター、あっち向いててくださいよ」
「あはは。失敬。美味しいかどうか菜美ちゃんの反応を見たくてね。つい」と言いながら、少し困ったような表情になる。
菜美は、マスターがこの表情すると、ニコラス・ケイジに本当に似てるなと思うのだ。
そして、お世辞にもハンサムとは言えない慶次のこの表情の顔を、こっそりと盗み見するのをいつも楽しみにしているのだった。
8章めで、ようやく慶次のアシスタント役の白川菜美が登場です。
彼女のおかげでストーリーに潤いが生まれるといいのですが。。。