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専門学校っぽい大学と、大学っぽい大学。

若者の人生相談と中年の刺激促進?を兼ねた座談会を、月に1度以上やっている。
概ね、大学4回生3~4名と、3~40代が3~4名といったメンバーで、お互いの近況報告に始まり、おカネ絡みの話から社会事情への質問と解説など、様々な内容を話のタネにしている。

レポートだらけの大学

コロナ禍のせいで、レポート提出だらけになったとの話が、別々の大学に属する学生から挙がった。極端な所では、本来の出席日ごと(合計15回も!?)にレポートを求める教員がいたり、7月中に課題が提示されて一週間以内の提出を求められたりするそうだ。結果的に、学生の負担は増える一方である。
あるメンバーが、レポート提出が全てオンライン化している某大学では、データ解析の結果、レポート課題の集中を見つけ出し、各教員に注意を呼び掛けたとのエピソードを出してくれた。だが、大抵の大学ではそうもいかないだろう。
非常勤の大学講師として私の担当は、2020年度前期では、6名の教員が6つの1回生クラスを持ち回りする科目のみだ。主任の教員が、早々に各教員へのオンラインレポート提出に振り替える判断をされたため、5月中には課題告知ができた。学生には2カ月半の猶予ができているから、集中という問題は起きなかったものと思われる。

専門学校っぽい大学

以上のような、レポートだらけの現状から、大学本来の意味って何だったっけ?の話題になった。
アラサーの男性が、『僕の行ってた大学は専門学校っぽくて、近藤さんの出た所などが、大学っぽい”大学”でしょう』と言った。
どういうことかと。
そういえば、メンバーの一人に彼と同じ大学の後輩にあたる現役学生がいた。専攻分野以外の理解が追いつかないようで、その度に質問していた。
わからないことを残さない態度に、好感が持てる。だが、彼女が、ある程度の基礎知識を備えていたなら、仮説を伴った問いかけが増えたりして、話の展開が違ったかもしれない。仮説展開は彼女の得意であり、実に惜しく思ったものだ。

つまり、『専門知識の取得は専門学校でも大学でも出来るが、専攻以外の知識や試行錯誤の機会は”大学っぽい大学”のほうが得やすいということか?』と彼に聞き返すと、その通りだとして『リベラルアーツを得やすいかどうかの違いです』と言ってくれた。
実にわかりやすい。
資格や職業に必要な知識・技術の取得は、専門学校でも大学でも充足するから、場所や費用などなどで選べばいい。しかし”大学っぽい大学”となると、どんな教員や学生が集まるかなど、リベラルアーツつまり基礎教養を身につける要素や環境の存在が重要になる。

では、彼の言う”専門学校っぽい大学”とは何だろうか。
露骨に言えば、専攻に関連した資格取得や就職支援は熱心だが、それ以外、すなわちリベラルアーツの修養などの側面は重視されにくい大学となる。大学設置者が意図して「専門学校」的な、あるいは「実学」寄りのカリキュラムを提供している場合もあれば、入試難易度の関係で”大卒資格”を得られれば~との学生が集まりやすい場合もある。
私は、専門学校っぽい大学こそ価値があると考えている。特に単科大学などは、おのずから専門学校っぽい要素が前提で、わき目を振らずに専攻分野に集中できるメリットがある。医療・福祉系や工業系など、職人気質が要求される職種への入り口として、大きな役割を果たしてきた。

大学っぽい大学

もちろん、大学っぽい大学もあってこそ、社会は成り立っている。
職人気質とは逆の人材も、社会には必要だ。他の状況との関連性や影響も考えつつ、様々な判断を行うためには、自分の専攻以外の知識も一定は必要だ。何より、自分とは違う考え方をする人々がいるとする”多様性の前提”を、心身に叩き込んでおく必要がある。
彼の話に戻すと、部活やサークルなど正課以外の場で、学年や専攻をまたいだ情報連携が発生しやすいのが、大学っぽい大学だという。専攻や地域に固定されず、方々から集まった学生や教員など周囲との摩擦こそが、”多様性の前提”を鍛えてくれる。総合大学にみられる特徴と言っていいだろう。

高専卒業者へのひそかな敬意

専門学校と大学のいい所取りを、若いうちから得られる方法もある。
高等専門学校、いわゆる「高専」だ。中学卒業時点で入学が可能で、教員は”教授”と呼ばれ、早い段階で専門分野の教育が施される。それで5年制であり、卒業時には短期大学同様に”準学士”号が授与される。
大学ほどではなくとも、正課の授業で自主的に課題をみつけたり、学生同士で協力し合ったり競い合ったりなどを、高校生の年齢から始められるのは大きい。また、設置者が国公私立のどれであっても、公立高校普通科の何倍もの広い地域から学生が集まって来るため、一定以上の多様性も確保されている。ややこしい表現ながら、高専の1~3年次は、専門学校っぽい大学っぽい高校ともいえるだろう。
あくまで私の周りの状況だが、高専出身者に外れはいない。
一定の専門知識があるのに、自分で考える癖をしっかり持たれている。なにより、解ることと解らないこと、今出来ることと出来ないことを、率直に切り分けている方が多く、実に話がしやすい。(高専出身ではないようだが、先ほどの”専門学校っぽい大学”に通う彼女にも、同様の美点が見られる)

こうなったら、高校普通科を減らして高専を増やすのも、面白いのではないだろうか。
学費の事情と居住地域以外での就学を考えるなら、都道府県の全域を学区とする公立高校を選べばいいが、普通科だと大抵は進学校で受験難易度が高いし、工業などの職業科は専門学校的な側面が強い。
そこで、国立が多いからではあるが府県境を越えた募集があり、かつ興味のある科目に配分しやすい高専は、ほど良い選択肢になると思う。現状は理系が多いが、文系もあると、さらに面白い。
高専に限らず、年少のうちに地域外に出られる選択肢を増やすほうが、生きづらさの解消にもつながるだろう。大人になっても職場への不満理由の上位に人間関係が挙げられるように、人脈のリセットが若い悩みを救うことが多々あるはずだ。

キャンパス分散がもったいない

あと、総合大学が、学部ごとにキャンパスを分けて展開するのはもったいない気がする。東洋大や青山学院大(参考資料)などが、文系だけでも都心の本部キャンパスに集約し直したところ、志願者が増えたそうだ。多くは通いやすさや都会の魅力で惹き付けられたのかもしれないが、総合大学の本分を取り戻した点は大きい。ただし、理系が別になった点では、多様性を弱めたともいえる。
全体でみれば分散型であっても、文系理系が同居するキャンパスがある、日本大や近大、あるいは立命館大のほうが、メリットが得られるのかもしれない。
この点で、明治以来から校地を持っている旧帝国大学の強みは大きい。東大なら文京区本郷、京大なら左京区吉田というように、医療系を含むほとんどの学部が集約されている。
真価は、コロナ禍後にはっきりしてくるだろう。オンラインなら、分散キャンパスでも良いとの意見もあるだろうが、物理的に接っているがゆえの『何かあれば連携できる』との前提は、他に代えがたい。もちろん、近所にある別大学の別専攻でも代用できるだろうが、一体感は弱いだろう。

おわりに

色々と述べてきたが、大学や専門学校の問題というより、高校の問題かもしれない。高校普通科から大学進学、あるいは付属高校で大学受験を回避といった、従来のメインルートのみが選択肢になってしまっては、受験対応能力だけで高卒後の進路を決めてしまいかねない。
高校卒業後も進学するのなら、まずは「専門学校」「専門学校っぽい大学」「大学っぽい大学」のように、大枠の選択肢を並べてみるといい。それらを、学生自身が意図して選べるようになれば、その後の人生におけるアンマッチは随分と減るはずだ。

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SDGs的なことを書いていると思いきや、情報社会関連、大学でも教えているボランティア活動などを書き連ねます。斜め視点な政治経済文化評論も書…

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