○○がないことが○○があることだと説く『金剛般若経』:空(くう)の教えのむつかしさ(その2)
(厳密な連載ではなく、あれこれ考えたことをその都度、書いています)
『金剛般若経』と阿含経典
先日、オンラインで、チベットのヨンゲ・ミンギュル・リンポチェが「『金剛般若経』のエッセンス」という教えをされました(10/1-3、9-10。11/6に追加の教えがおこなわれることになりました)。要旨は主催者(Tergar Asia)によってFacebookで公開されています。
https://www.facebook.com/TergarAsia
「般若」はプラジュニャーに漢字を宛てたもので、意味は「智慧」、仏陀の智慧のことです。般若経には長いものから短いものまでさまざまあり、『金剛般若経』は『般若心経』ほどではありませんが、短い般若経です。チベットにはさらに短い般若経があり、それは『一字般若経』です(ちなみに、その一字とは、阿字です)。
『金剛般若経』という呼び方は、短く縮めたもので、正式には『能断金剛般若波羅蜜多経』、「何でも断ち切ることのできるダイヤモンド(金剛)である智慧の完成」という題の経典です。すべては空である、空でないものは何ひとつない、ということを、もっとも硬い物質=何でも断ち切ることのできるダイヤモンドにたとえています。
般若経は代表的な大乗経典で、チベットの伝統では、中国や日本と同様、大乗経典を仏陀の教えと認めます。大乗経典については、認めない伝統もあり、学者の多くは、大乗経典を釈尊よりも後の時代に成立したものと考えています。
学者が大乗経典の成立期のもの考えているのは、阿含経典の言葉の解説です。たとえば、『稲竿経』は、釈尊が稲の茎を見て短い言葉をつぶやかれて沈黙し(その言葉は阿含経典に収録されています)、それを弥勒菩薩が解説するという経典です。大乗経典はそういうものからはじまり、後に釈尊が大乗の教えを説くものが作成されるようになった、と学者は考えています。
これは、考古学のように実際に古い時代の経典が発掘されたわけではなく、あくまでも、現在存在している大乗経典から、そのようにして成立したのでは、と推測したものです。信仰の立場と学問の立場も、当然違うでしょう。
ただ、大乗経典が阿含経典の内容を強く意識し、それを念頭において説かれた、あるいは書かれたものであることは、動かしがたいところです。
『金剛般若経』では、釈尊と弟子のスブーティ(須菩提)の対話という形で進行し、ひたすら、○○がないということが○○があるということなのだ、ということが繰り返されます。
スブーティよ、如来によって説かれた「知恵の完成」は、すなわち完成ではない、と如来は説かれたのであって、それゆえ、「知恵の完成」といわれるからである。(長尾雅人訳『大乗経典1』中公文庫)
実は、『金剛般若経』のなかにも、一箇所、阿含経典の教えが引用されている箇所があります。それは有名な筏のたとえです。
それゆえに、この隠された点を意味して、如来はつぎのことばを説かれたのである。 「(法が)筏にたとえられている教え(法門)のあることを知るほどのものは、法さえも捨て去らなければならない。まして、法でないもの(非法)は、なおのことである」と。 (同上)
これは、釈尊のお弟子さんに頭の固い人がいて、教えを間違えておぼえていて、他の弟子たちから釈尊はそんなことは説かれていないと言われても譲らず、釈尊の許につれていった時に、釈尊が説かれた教えとされています。
旅人が大きな川に差し掛かり、橋も船もなく、岸で木を伐って即席の筏をつくり、それを使って無事、向こう岸に渡り終えた(インドには乾季と雨季があり、乾季は雨が降らず、雨季は降り続くので、川幅が乾季と雨季で大きく変わります)。 そこで、その旅人が、「この筏は役にたった」と担いで行こうとしたならば、それは筏について適当なことをしたといえるだろうか?
「いいえ」と弟子たちは答えます(川を渡り終えたら、もうその即席の筏は必要ありません)。
「そのとおりだ」、釈尊は続けます。 「私の教えも、向こう岸に渡るためのもので、渡り終えたら捨てるべきものである。 まして間違った教えを捨てるべきことは、いうまでもない」と。
大乗経典である『金剛般若経』は、この阿含経典のたとえをめぐる経典と考えると、ひたすら繰り返される、○○がないということが○○があるということなのだ、という教えが何を言っているのか、理解しやすくなると思います。
阿含経典のたとえのように、自分が古代のインドにいて、旅をしていて、川にさしかかった、と想像してみてください。そこには橋も船もありません。そばの木を伐って、即席の筏を作ります。それに乗り、無事に向こう岸に渡り終えました。
筏は必要でしょうか?ーもう、渡り終えたので、必要ありませんね。
川を渡ることは必要でしょうか?ーこれも、渡り終えたので、必要ありませんね。
でも、そのように言うことができるのは、自分が筏を使って向こう岸に渡ったからです。
そのことを、『金剛般若経』では、筏もないし渡ることもないということが、筏を使って向こう岸に渡ることなのだ、と説くのです。
こちらの岸にたとえられているのは、私たちのいる苦しみの世界です。向こう岸は、苦しみから解放された、さとりの世界です。この筏のたとえは、「彼岸(ひがん)」という言葉の語源とされています。
『金剛般若経』は、すでに向こう岸に渡り終え、苦しみから解放された仏陀の智慧について説いている経典です。それが私たちにとって、よくわからないものなのは、私たちはこちらの岸に留まっていて、向こう岸に渡っていないからです。
空性の理解と仏教の実践の必要性
ミンギュル・リンポチェは、教えのなかで、空性の理解について、知的理解・体験的理解・「現観」(リンポチェは英語でDirect Realizationとおっしゃっていました)という段階があるということを強調され、それを「本で月について学んでいる段階」「水に映った月を見る段階」「実際の月を見る段階」にたとえられていました。実際に月を見る段階も、最初は、細い三日月を見て、それが次第に大きくなって、満月になった時が、仏陀のさとりです。
これは、伝統的な実践階梯である、五道・十地のことを言っています(「実践階梯:五道と十地」の記事を参照)。
https://note.com/konchogyeshe/n/n92997c4b9a95
資糧道は、修行に必要なものを集める段階で、空性については知的理解に留まります。
加行道にはいると、不完全ですが、体験的な理解が得られます。伝統的には、まだ火は見ていないが、暖かみや煙を感じ、そこに火があることに疑いがなくなった段階とされます。
見道は、文字通り「見る」段階で、物事の真のありようを直接体験します。北伝では、そこから菩薩の十地がはじまります。
見道が菩薩の十地の初地で、第二地~第十地は修道です。
無学道、何も学ぶことの必要なくなった段階が、仏陀の境地です。
教えの理解という点においても、教えを真に理解するためには、自分が実際に向こう岸に渡る必要があります。そもそも、仏陀の教えは私たちを向こう岸に渡すためのものです。
伝統的理解において、実践の必要性が説かれるのは、そのためです。
(「二つの菩提心(世俗菩提心・勝義菩提心)勉強会」第8回より。2021年10月18日)