思想研究は何を明らかにすべきか
歴史学においては、何が実際に起こったことかを明らかにすることが重視されていて、そこから聖徳太子非実在説もでてくるのですが、それを言い出したら、らっきょうの皮剥きになってしまい、自分がこの目で見た人以外、あるいは見た人すら、実在していた確実な証拠はない、ということになりかねません。
私の関わっている思想史学は、思想家についての歴史的な事実を明らかにするだけでなく、後世生まれた伝承を「後世の創作、歴史的事実ではない」と切って捨ててしまうのではなく、なぜそういう伝承が生まれたのか、その伝承が人々にどういう影響を与えたのか、についても考える学問です。
そうは思わない先生もいらっしゃるでしょうが、私はそう思っています。
思想は、単に昔、ある人がこういうことを語った、というだけでなく、教えに接した人が影響を受け、その人の一生を左右することすらあり得るものです。
その思想家の死後に起こったことすべてを、それは歴史的事実ではない、と否定してしまっては、
思想にとって大切な、それがどう人々の心に響いて、その人を変えたのか、という肝心なことが見えなくなってしまいます。
仏教についていうと、中国・日本・チベットなどの北伝では、菩薩の誓願、一切衆生を苦しみから救う誓いが重視されます。
もし、その人の活動が死と共に終わり、後は後世の創作であるとしたら、一切衆生を苦しみから救おうという菩薩の誓願は、挫折に終わるしかありません。
そうではない。
釈尊や、龍樹や、聖徳太子、弘法大師、親鸞聖人、道元禅師、それらの方々の立てられた誓願は、今なお有効で、生きている私たちに届いている。
それらの方々が、他ならぬこの私を救おうと努力されてきたことに気づき、喜び、道を歩むのが仏教だ、
ということとを、今回の京都の展示やフォーラムで、改めて気づかさせていただきました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?