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【全文公開】やさしい心を育てる(2014)

一 自分の大切さに気づく

・子育てと仏教

 仏教に対するイメージは人それぞれで、子育てと仏教の組み合わせについて、違和感を覚える人もいるでしょう。しかし、明治になって学校教育制度ができる前は、子供の教育は寺小屋―仏教のお寺などでおこなわれていました。
 仏教では、「慈悲」は仏教徒の義務のようなものではなく、あらゆる人のなかには自然なやさしさの種が備わっており、それを自分自身で見つけ、覆いを取り除けば、自然と美しい花が開く、と考えています。
 どんな親でも、自分の子がやさしい子供に育ってほしいと願わない親はいないでしょう。しかし、やさしい子供が育つには、その親がやさしい親である必要があります。それは必ずしも、欲しいものは何でも買ってあげて、絶対叱らない、ということではありません。
 怒ることと叱ることは、まったく違います。仏教の考えでは、怒りは煩悩で、自分自身の感情をコントロールできず、それに振り回され、相手にぶつけてしまうことです。相手のためを思って、よくないこと、危険なことを叱ることは、それとは違います。
 仏教には不動明王のような恐ろしい顔をした仏様がいらっしゃいます―安土桃山時代に日本を訪れた宣教師が誤解して、日本では悪魔崇拝がおこなわれていると報告した程です―が、不動明王は、怒っているのではなく、衆生の間違いを気づかせるために、あえて恐ろしい顔をしているのです。仏様というのは、一切の煩悩から離れ、どんな生き物に対しても無条件の慈悲を注いでいる存在です。不動明王の恐ろしさは、慈悲の現われです。
 子供が危険なことをしたり間違ったことをしているのに、それを放任したら、その子供自身に悪い結果が生じます。そうならないよう叱るのは、愛情です。しかし、子供にこうなってほしい、と自分の願望を投影し、子供が思い通りにならないからといって腹を立て、怒りをぶつけるのは、煩悩です。子供は怖がって行為を改めるかもしれませんが、それは親が怖いからであって、自分が間違っていたことに気づいて、自分の行為を改めようと思って、悪いことをしなくなったのではありません。

・やさしさと自分を肯定できること

 やさしい親というのは、子供の存在を全肯定できる―子供がいい子供であろうとわるい子供であろうと、決して見捨てたり裁いたりすることのない、子供にその場にいていい、という安心感を与えてあげる存在です。恐怖で縛ることとは正反対です。
 それができるためには、その親自身が自分の存在を肯定している必要があります。しかしそれは、現代社会においては必ずしも容易なことではありません。なぜなら、現代社会は常に物を欲しがりつづけることによって発達した社会で、人は、常に満たされず、新しいものを欲しがりつづけるよう仕向けられているからです。
 真に満たされた感覚がないまま育ってしまうと、新しい自分の家庭―配偶者や自分の子供こそが自分の願望を満たしてくれる存在だと過剰に期待し、その通りにならないと、傷つき、腹を立て、暴力をふるってしまいます。それがDⅤ(家庭内暴力)や幼児虐待です。

・今の自分の幸運さに気づくことが仏教の出発点

 意外に思う人もいるかもしれませんが、今の自分は実はきわめて幸運な状態にいるのだ、と気づくことが、仏教の出発点です。三帰依文には、「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」とあります。
 どんなに貧しくても、病気がちだとしても、私たちがこうやって人間に生まれていることは、あらゆる生き物の中で例外的で、きわめてラッキーなことなのです。
 もし魚に生まれたとしたら、何千と生まれた卵のなかで成魚まで育つのは一、二匹です。私は不幸だ、生きていても何ひとついいことはない、と考えている人でも、成人式に出てみたら、小学校の何百人かの同学年で、成人式を迎えたのは自分ひとりだった、とか、出身地の都市でひとりしかいなかった、ということはないでしょう。
 無数にいる蟻たちは、私たちが踏みつぶしたり、殺虫剤をかけたりしたら、何十、何百もが一度に死んでしまうような小さな存在です。でもそんな蟻でも、よく観察してみると、餌が落ちていたらそこに集まって必死にそれを運び、水が流れてきたら必死にそこから逃げようとします。苦しみを厭い、幸せを望むことは、私たちとまったく変わりません。そうやって考えていくと、当り前で、何の価値もないと思っていた私たちの生は、生き物の中できわめて例外的で、それを得る確率は、宝くじの一等があたるよりも低い、ということを認めざるをえません。
 自分が生きていることに何の意味もない、と考えている人が無常の教えを聞いたとしたら、すべてはむなしい、生きていてもしょうがない、と考えてしまうかもしれません。しかし、自分がこうやって人間として生きていることは、それだけで幸運で、得難いことだということが実感できた人が聞いたら、この好機は永遠に続くものではない、なんとかしてこの好機を生かしたい、と考えるでしょう。
 同じ教えでも受け取り方はまったく異なり、だからこそ、仏教ではどういう順番で学ぶかがとても重要で、その出発点になるのは、自分がこうやって人間として生きていることは極めて得難く、幸運なことなのだという「事実」を認識することです。

・覆いとしての無明

 私たちがこの「事実」を認識することを妨げているのは、自分が得ているものには関心を向けず、持っていないものこそが価値があり、大切なものだと考えてしまう、間違った捉え方です。仏教ではそれを「無明(無知)」と呼びます。無明こそが、私たちが幸せを望み、誰も苦しみを望まないにもかかわらず、苦しみに陥ってしまう真の原因なのです。
 そのため、健康だけれど貧しい人は「自分はお金がないから不幸だ」と考えて自分の健康の価値には気づきません。何百億持っていて不治の病に冒されている人は、その健康が手に入るなら、何百億払っても惜しくはないと考えるのに、です。
 毎日学校に行く子供は、「毎日学校に行くのは嫌だ、学校のない世界に生まれたい」と考えるかもしれません。世界にはまだまだ貧しく、子供も働かなければならず、学校にやる余裕はないという地域も少なくありません。そういう子供は働きながら、毎日学校に通うことを夢見るでしょう。そうである限り、どんな状態になったとしても、どんなところに生まれても、常に不幸で、満たされることはありません。それが輪廻の苦です。

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(『週刊仏教タイムス』2013年10月3日号で紹介されました)

ニ 慈悲の心と自分の幸せ

 仏教は無我の思想だとよく言われますが、これは誤解を招きやすい言い方だと思います。伝統的な仏教理解では、釈尊は一律の教義を説いたのではなく、相手に合わせて異なる教えを説いたとされています。ナーガールジュナ(龍樹)も『中論』の中で「もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている」(18章6偈)と述べています。
 これは場当たり的に適当なことを述べるというのではありません。仏教は、「私」を手がかりとして私を越えていく、巧みな方便を用いる教えなのです。

・利他の心で自分が幸せになる

 チベットの仏教の指導者であるダライ・ラマ法王は、教えを説く際に、まず、人生の目的は幸せになることで、宗教は幸せを獲得する手段のひとつだと言われます。
 では、仏教では、どのようにして幸せを実現していくのでしょうか。
 仏教では慈悲や利他の心を説きますが、人によっては、それでは幸せになるのは他の人や生き物で、自分は幸せにならないのでは、と思われるかもしれません。あるいは、仏教は「無我」の教えだから、自分を捨てなければならないのだ、と。法王は、ご自身の経験からも、それは間違いだと断言されます。

「あわれみや慈しみの心を育むのは、他人のために行う、世界に対する捧げ物、という印象を受ける場合が往々にしてあります。ですが、それでは表面的にしかとらえていません。自分で体験して感じたのですが、あわれみを実践すると、他人に対してではなく自分に対して直接のプラスとなるのです。自分自身には一〇〇パーセントのプラスになりますが、他人にはその半分でしょう。ですから、あわれみを実践する主な理由は、自己の利益のためなのです。」『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』アーティストハウス

 仏教の慈悲の心が自分にとって一〇〇パーセントプラスになるというのは、次のようなメカニズムによってです。
 仏教を信じようと信じまいと、慈悲の心を持とうと持つまいと、その人に不幸や困難が訪れることはあります。私たちは関係の中で生きている以上、それを逃れることはできません。その時、もしその人が自分のことだけを考え、自分の利益のみを追求している人だったら、その不幸は、すべてを奪い去るものとして感じられるでしょう。もうこれ以上生きていても無駄だと考えるかもしれません。それに対して、慈悲の心を持ち、利他を考える人にとっては、まったく同じ不幸や困難が訪れたとしても、それは自分の問題関心のごく一部でしかありません。ちょうど、底の浅い船は少しの波でひっくり返ってしまうのに対して、底の深い船は大波が来ても転覆しないようなものです。

「自分のことだけを考えているときには、現実を見る焦点は狭まり、そのために不愉快な物事が大きく映り、恐怖や不快やみじめさに打ちのめされたようになります。ところが、他人を気づかって思いやれば、視野は広くなります。広くなったものの見方の範囲内では、自分自身の問題はそれほど重要でないように映ります。これが大きな効果を生み出すのです。他者を思いやる感覚を持てば、自分自身の難局や問題にかかわらず、その人は一種の精神的な強さを示すことでしょう。精神的に強くなると、自分の問題の重要性は薄れ、厄介なものではなくなります。自分自身の問題を超越して進み、他の人を大事にすることによって人は精神的強さや自信、勇気、安定感を得るのです。」『思いやりのある生活』光文社知恵の森文庫

 ダライ・ラマ法王が、教えの質疑の時間に、不幸な境遇を訴える人に対して、「視野を広く持つと効果があるかもしれません」と勧められるのは、このためです。

・利他の心の手がかりは、幸せになりたい自分の気持ち

 では、どのようにして他に対する慈悲の心を養っていくのでしょうか。
 ダライ・ラマ法王はよく、幸せを望み苦しみを望まないことは、自分も衆生も変わりがない、と説かれます。幸せになりたいという自分と同じ思いが衆生にあることを認めるのが、仏教の慈悲の心です。

「他の人を気にかける感覚を伸ばすときに土台となるものがあります。意外に思われるでしょうが、自分自身を愛せる能力が基礎となるのです。自分自身への愛情は、何も自分に恩義があるので生れるのではありません。それどころか、自分を愛せる能力の根底にある事実は、人はみな本来、幸福を願い、苦難を避けたいと思っていることです。幸せになり、苦しみを避けたい欲求がなければ、自分を大事にすることはないでしょう。この事実にいったん気づけば、愛情をその他の有情の生き物に広げることができます。」『思いやりのある生活』

 実際に他に対する慈悲の思いを心の中に生じさせ、それを一切衆生に広げていく時に手がかりとなるのも、自分が愛されたという思いです。それは「一切衆生を前世で母であったと考え、その恩に報いる」という教えですが、チベット特有のものではなく、日本仏教の伝統(例えば『歎異抄』)においても説かれていたことです。

「一般的に仏教修行に携わる前は、目的や恩恵に目が向きます。あたりまえの話です。その段階を抜かして、ただあわれみを育めと言われても、たいていの場合、たいして中身のない人為的なものを育む結果になってしまいます。たとえば、あわれみを育むための昔ながらの仏教の方法では、有情のものひとつひとつが自分の母親であるかのような観点を作り出します。……なぜするのでしょう? それは、あらゆるものを自分の母親と見ることで、情愛、慈しみ、やさしさ、好意、感謝などの意識が生まれるからです。行動に移す理由が理解できれば、あらゆる有情のものが実は自分の母親かどうか核心できなくても、目的を見据えて恩恵を期待しながら、足を踏み出せるのです。」『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』

 この教えの核心は、自分が愛情を注がれた記憶を呼び覚ますことが、その相手に対する自然な愛情を蘇らせことにあります。仏教はその自然な思いを、一切衆生に広げていくのです。義務として利他や自分を捨てることを強いるのではありません。

・現代社会に活かす際の注意点

 とはいえ、これを現代社会において実践する上では、注意すべきことがあります。それは幼児虐待の問題です。母親から虐待された人に、一切衆生を母親と思えというのは逆効果です。しかしこの教えの本当のポイントは、相手が母親かどうかではなく、愛情を受けたことを思い出すことにあります。虐待をしてしまう親は実は自分も虐待を受けていた、ということがよく言われます。愛されなかったという思いが、他への愛情を阻害するのです。しかし、人間は生まれ落ちた時点では、一人で生きていくことはできません。親に十分愛されなかった人でも、誰かしら手を差し伸べた人がいたはずです。その人の愛を思い出すこと、それが鍵なのです(実践においては、ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』講談社12章を参考にされることをお勧めします)。
 私の幸せを妨げているのは、私だけにこだわる視野の狭さです。それを広げることができるのが慈悲の心で、それを育むためには、自分が愛情を受けたことを思い出して相手への自然な愛情を呼びさまし、それを広く一切衆生に向けていくことが必要です。
 日本でもチベットでも、伝統的な仏教の実践階梯の最初の教えは、「人間として生まれたことの貴さの自覚」です。仏教の実践はここから始まります。

三 空を理解するー何のために・どうやって

・空、無我と慈悲の教えの関係

 仏教の空や無我の教えは、インドの他の宗教や、西洋社会において、虚無論とみなされてきました。なかでも一切が空であると説く中観派は、仏教内部からすら、虚無論と批判されることがありました。
 よく出される疑問として、「一切が空なら衆生も空であることになり、慈悲の教えと矛盾するのでは?」というものがあります。これは誤解です。私たちは他の人や生き物について、かわいそうという気持ちを持つことはありますが、自分自身の怪我や悩みであれば、ちょっとの傷でも耐え難かったり、夜も眠ることができなかったりするのに、他者の苦しみや痛みをそのように感じることはありません。無関心だったり、それが自分の敵であれば、「ざまぁみろ」と喜ぶことすらあります。
 他への慈悲の気持ちを妨げているのは、自分と他人を分け、自分を中心に捉える心のあり方、仏教でいう「我執」です。ですから実際には、空、無我の理解が深まれば深まるほど、他への慈悲の思いも強くなり、慈悲の思いが強ければ強いほど、空や無我の理解も容易になります。仏陀の境地を目指すことにおいて、空性(空であること)の理解と、一切衆生への偏りのない慈悲およびそれに基づく菩提心は、車の両輪のような関係にある、と言われます。

・「我思う、故に我有り」はなぜ問題か?

 次によく出される疑問として、「どう考えても私はある、それを空、ないということには納得がいかない」というものがあります。デカルトは、「我思う、故に我有り」と言いました。すべての存在を疑うとしても、今それを考えている私が存在することは疑うことができない、したがって、私は存在する、と結論づけたのです。これにはどのような問題があるのでしょうか。
 まず、仏教が説いているのは、現に今こうやって考え、生きていると実感があるのに、それを否定して、私を無いもののように思い込みなさい、ということではありません。それでは虚無論になってしまいます。一切が空であると説く中観派の祖とされるインドのナーガールジュナ(龍樹)も、虚無論が道徳否定の間違った教えであるということを、仏教の中の実在論者との議論の前提としています。

「すべての過誤が生ずる根拠である無をともかくすでに排除しているとしたら、正理をもって有をも排除しなければならぬ。そこで汝はそれを聞け。」『六十頌如理論』『龍樹論集』中公文庫所収

 では、仏教の無我や空の教えは本当はどういう意味で、「我思う、故に我有り」はどこに問題があるのでしょうか。
 無我や空の教えは実感とは相容れないため、それを人々に理解させることは容易ではありません。釈尊は巧みな比喩を用いられ、私たちの心の働きの問題点を、誰もが納得いくように示されています。それは「群盲象を撫でる」という喩えです。「ある王様が象を飼っていて、それを目の不自由な人たちに触らせませした。頭を触った人は「象は甕のようなものだ」、鼻を触った人は長い「轅のようなものだ」、耳を触った人は「笊のようなものだ」、足を触った人は「柱のようなものだ」と言い出し、「私が正しい、お前は間違っている」と喧嘩になってしまいました」。
 これは直接には、インドの他の宗教家たちの問題点についての喩えです。彼らは思索や瞑想などによって宗教体験をし、これこそが真理だ、これが悟りだ、と考え、「私は真理を悟っている。お前は間違っている」と論争していました。それに対して釈尊は、そういう形で語られるものは真理ではないし、そのような議論は苦しみからの解放に役立たない、と退けられたのです(中村元編『原始仏典』筑摩書房、参照)。
 象の頭を触って、それが固くて大きく、甕のようだと感じることは、間違いではありません。しかしだからといって、「象は甕のようなものだ」と結論づけたら、見当違いですよね? 宗教家たちが何らかの神秘的な体験をしたのは本当だったのでしょう。彼らの間違いは、そこから「これこそが真理だ」という結論を導き出したことにありました。
 これは、宗教家だけでなく、私たちの日常の考え方にも当てはまります。私たちは、ある人に嫌なことをされたら、「嫌な奴だ」と認識し、次に顔を合わせたら顔を見ただけで、あるいはその人のことが頭に浮かんだだけでも、とても嫌な気持ちになります。私たちはそれを、その人が嫌な奴だからだ、と考えます。でもそれは、象の頭を触って甕のように感じた、だから象は甕のようなものだ、と言っているのとまったく同じです。仏教が、無明が苦を作り出す、と説くのは、こういう心の働きのことを言っているのです。「我思う」と「我有り」についても同様です。

・空、無我を理解する方法

 ですから、苦しみからの解決方法、真の悟りは、自分の間違いに気づくこと、それ以外にありません。象の頭を触って甕のようだと感じることは間違いではないこと、しかしそこから「象は甕のようなものだ」と結論を出すのは間違いだと気づくこと、これが仏教の二諦(二つの真理。世俗諦=相対的な真理と勝義諦=究極の真理)です。
 それは一言で言えば、物事を正しく見るということで、象の頭を触って固くて大きいという感触を味わっているのに、象などどこにもいないと思い込むこと(虚無論)とはまったく違います。
 仏教できわめて危険なのは、空や無我という言葉を知ることが、仏教をわかることだと思ってしまうことです。空や無我について本を読んで沢山の知識を持つことと、空や無我を理解することは、まったく違います(空論者は救いがたいと『中論』十二章でも説かれています)。
 釈尊は、先程のような状況のなかで、「これこれが真理だ」と主張すること(分類して六十二見と言われ、大別すると実在論=有の立場か虚無論=無の立場のいずれかになります)は苦しみからの解放の役に立たない(私が説く教えではない)と言い、苦しみからの解放に役立つ教え、私が説く教えとして、苦しみと苦しみの原因と苦しみを滅した境地とそれに至る実践の四つの真理(四聖諦)や、無明から、生まれ、老い死ぬという苦しみに至る十二の段階(十二支縁起)について説かれました。
 しかし、四聖諦や十二支縁起について知識を持つことと、それを真に理解することとは、まったく違います。釈尊は十二支縁起を理解することは難しいと繰り返し説き、「私にはやさしく感じられる」と言った弟子のアーナンダ(阿難)に対して、十二支縁起は深遠であり、それを理解していないゆえに人々は苦しみにあるのだ、という説き方をされました。もしアーナンダが苦しみを味わっているのであれば、自分の理解が間違っていることに気づくでしょう。自分自身で気づくことを促すこと、それが釈尊の教え方なのです。子供を亡くして狂乱している母親(クリシャゴータミー)に、死者を出したことのない家から芥子粒を貰ってきなさい、と説いたのも同じ教え方です。
 ナーガールジュナの『中論』が分かりにくいのは、空について説明した書ではなく、読み手が自分の間違った考えに気づくこと、空を真に理解することを目指した、導きの書だからです。釈尊の教えについて豊富な知識を持ち、それを理論化することが教えを理解することだと思っている者たちに対して、ナーガールジュナはその思い込みをひとつひとつ打ち壊していき、では真理とはどのようなもので、それにどのように到達するのかと聞き返されて、答えた章とされるのが十八章です(チャンドラキールティの解釈による)。そこでナーガールジュナは、「(五)蘊が私か、(五)蘊を離れた私があるか」考えなさい、と説きます。私の体はある、私は感じている、私は考えている、だから私は有るのだ(「我思う、故に我有り」)と信じて疑っていなかったのに、いざ探してみるとどこにも「私」を見つけ出すことができない、それに自分自身が気づいた時、それが本当の悟りであり真理であるのです。

(以前、慈母会館(公益財団法人全日本仏教尼僧法団)で勉強会をおこなっていた時に、配っていた冊子です。現在は『チベット仏教入門 自分を愛することから始める心の訓練』ちくま新書に、内容が取り込まれています。)


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