見出し画像

愛のはじまりの言葉のこと。

「日常会話は音楽ゲームと同じでテンポ良く進めばよく、発言した内容の真偽はどっちでもよい。人の言ったことは半分程度信じればよい。」
 この真実に、私は昨年末まで気づいていなかったのでした。
 人の言ったことの十割をいちいち真に受けて、一喜一憂していたのです。しかも私は記憶力が良いので、十年前に一緒にお茶したときの一言とかを無駄に覚えていて、あの発言の真意はなんだったのか…などと悩んだりしていたのです。
 現在は、自分の物覚えの良さも加味して、人様の発した言葉の信憑性は三割程度だなと思って生活しています。たいへん平和です。

 そんな私が、まだ人の言葉を十割鵜呑みにしていた十五年ほど前のことです。

 男性のグループと女性のグループで、何回か飲みに行ったあとで、「次は一緒にバーベキューをしよう」ということになりました。男性側と女性側でそれぞれ幹事を立てることになり、女性側が私。

 で、男性の幹事から最初にメールが来た時の最初の一文に、
「本当はもっと早くに連絡先を聞いてこのようにメールをしたかったのですが、自分は大事なことを後回しにしてしまう性分なので」
 とあったのですね。

 当時の私はこの一文を非常に重く受け止め、ここから真面目なメールの応酬が始まったのでした。

 この時の相手の男性が、まあ、今の夫です。

 後年夫に尋ねたところ、当時のメールのあの一節は単なる社交辞令だったとのことでした。
 今にして思えばそりゃ、当然だわなという感想しかないわけですが…。

 ただこの社交辞令、夫は「あるひとつの女性のグループの構成メンバーと連絡をとる場合、その中の最初の一人目にしか使わない」と決めていたのだそうです。同じグループ内の女の人みんなに伝えてしまうと、あとが面倒になるというわけです。
 つまり単なる会話の音ゲーに乗せるには、少々重すぎるワードだとわかっていたわけですね。
 そしてそのワードが、よりによって何でも真に受ける私に対して炸裂してしまったわけです。

 夫の使った社交辞令はその後、お付き合い、結婚、子ども二人の誕生という非常に重い結果をもたらす(もちろんその結果を生むに相応しい愛情が芽生える)というその最初のきっかけになったのでした。
 今はもう、私は家族以外の人間の言葉をぜんぶ真に受けることはありませんが、どれだけ使い古されて意味が薄まっている言葉でも、単なる音でなく人間同士がやり取りする言葉である以上、ドラマを呼ぶ可能性はいつでもあるのだよなあ、ということだけは、やっぱり思ってしまいます。

いいなと思ったら応援しよう!