山崎るり子「水族館」について —宇宙とは水族館の水槽のようなもの—
水族館 山崎るり子
へんですか
陸地の空間に
水を囲む箱を置いて
色とりどりの
海の魚を 泳がすなんて
水が黒いインクのようではなかったので
良かったです
私たちには 魚がよく見える
透き通った板で分かれている
透き通った水と
透き通った大気
魚は内側がすべてです
私たちのすべては
内側もかかえて ふくらんでいける
いつか
膨張しつづける宇宙の片隅で
水の入った箱の中の
魚になる 私たち
箱がくだけて
内側が外側になる
夢を見る
我々は、自分たちの住むこの宇宙が、世界の全てであると信じている。しかし、本当は、この宇宙の外にも、世界が広がっているのではないか——、この詩は、そのような可能性を指摘する詩である。なぜ、この宇宙の外に世界が広がっていると言えるのか。それは、この詩の内容を追っていけば分かる。第一連から、順番に見ていこう。
第一連には、「へんですか/陸地の空間に/水を囲む箱を置いて/色とりどりの/海の魚を 泳がすなんて」とある。作品のタイトルから、この第一連の記述は「水族館」についてのものであることが分かる。
次に、第二連には、「水が黒いインクのようではなかったので/良かったです/私たちには 魚がよく見える」とある。「私たちには 魚がよく見える」と言っていて、ここで初めて、“水族館の客”と“水槽の中の魚”が登場し、前者は後者を眺める存在であることが指摘されている。「黒いインク」という発想が、どこから出てきたのかは、この時点ではまだ分からない。
第三連には、「透き通った板で分かれている/透き通った水と/透き通った大気」とあり、この連では水槽の内と外を隔てている「板」の存在が顕在化している。
さらに、第四連では、「魚は内側がすべてです/私たちのすべては/内側もかかえて ふくらんでいける」とあり、第三連で顕在化した「板」によって囲われた「内側」について言及されている。ここで、「魚は内側がすべてです」という表現に注目したい。たしかに、水槽の中の魚にとっては、水槽の「内側」の世界が全てであり、魚には、水槽の「外」があるなどとは思いもよらないだろう。そのことを、この第四連は指摘している。
しかし、指摘はそれだけには留まらない。「私たちのすべては/内側もかかえてふくらんでいける」とある。これは、何か重要なことを言っているようだが、一体何を言っているのだろうか。
この二行が何を言っていたのかについては、次の第五連を見ると分かる。「いつか/膨張しつづける宇宙の片隅で/水の入った箱の中の/魚になる 私たち」。第四連の「ふくらんでいける」と、第五連の「膨張しつづける」が、似ている表現であることに注目してほしい。そうすると、第四連の「私たちのすべて」とは、我々の住むこの宇宙であることが分かるだろう。つまり、第四連の、「私たちのすべては/内側もかかえてふくらんでいける」というのは、我々の住む宇宙は、水族館の水槽も抱えて膨張している、という意味ではないだろうか。
そして、ここからがこの詩の中で最も重要な部分である。「いつか/膨張しつづける宇宙の片隅で/水の入った箱の中の/魚になる 私たち」。これは、一体どういう意味だろうか。なぜ、「私たち」が魚になるのか? ——それは、我々自身も、実は宇宙という名の一つの水槽の「内側」に閉じ込められた存在だからではないだろうか。……こういうと、あなたは、「いいや、違う。この宇宙はまさしく私たちの全てであり、その外側なんて無い」と主張するかもしれない。だが、水族館の水槽に閉じ込められている魚も、まさにそのように感じているのである。魚にとっては、水族館の水槽が「すべて」なのだ。だから、我々が、自分たちの住むこの宇宙を「すべて」であると信じれば信じるほど、その「外側」の存在の信憑性は強くなるのである。さらに、もしかしたら、我々の住む宇宙は、その外側から何者かによって眺められているかもしれないのだ。まさしく、我々人間によって眺められる水族館の水槽の「内側」と同じように。第二連で水槽の水が「黒いインク」でなくてよかった、とあったのは、「黒いインク」に塗り込められたような、宇宙の闇を、語り手が連想していたからかもしれない。
さて、この詩は第六連で次のように締めくくられる。「箱がくだけて/内側が外側になる/夢を見る」。これは、いつかこの宇宙を囲っている「板」が砕けて、我々がその外に脱出できるかもしれない、という夢想を表している。我々、宇宙に生きる存在を、「閉じ込められた存在」として強く意識する三行である。
以上より、宇宙というものは、実は一つの箱の内側であり、一枚の板に相当するものを隔ててその外側というものが存在するのではないか、という問題提起がこの詩のテーマである。我々にとって「すべて」であるこの宇宙が、実は「すべて」ではないかもしれない、と指摘しているところに、この詩の斬新さはある。