品性の大切さ —吉野弘の詩「記録」について—
今回は、詩人・吉野弘の「記録」という詩について見ていきます。
記録 吉野弘
首切案の出た当日。事務所では いつに変らぬ談笑が声高に咲いていた。
さりげない その無反応を僕はひそかに あやしんだが 実はその必要もなかったのだ。
翌朝 出勤はぐんと早まり 僕は遅刻者のように捺印した。
ストは挫折した。小の虫は首刎ねられ 残った者は見通しの確かさを口にした。
野辺で 牛の密殺されるのを見た。尺余のメスが心臓を突き 鉄槌が脳天を割ると 牛は敢えなく膝を折った。素早く腹が裂かれ 鮮血がたっぷり 若草を浸たしたとき 牛の尻の穴から先を争って逃げ出す無数の寄生虫を目撃した。
生き残ったつもりでいた。
この詩はまず、語り手の勤めている会社で人員削減がなされるという状況を描き出しています。事務所の人々の、常と変わらない談笑の声を耳にして、語り手は、「これは多くの人間をクビにしたために、それがバレないように無反応を装っているのではないか」と、人々の表情の裏を読みます。しかし、語り手がそのように心配する必要は無かったのでした。というのも、語り手はクビを免れたからです。そのように、語り手は無事に会社に残ることができましたが、クビになった人もいて、会社では勤める人数が減ったために、残った人は前よりも早く出勤しなければならなくなりました。そのため、語り手は、遅刻した人のように捺印した、とあります。おそらくこの当時は、タイムカードよりももっと古く、会社に着いたら捺印するというシステムだったのでしょう。とにかく、首切案の出た翌朝に、語り手が出勤しているという記述から、語り手がクビを免れたと確認できるのです。
この会社に勤める人々は、首切案に対してストライキを実行しました。しかし、それは失敗し、「小の虫」、つまり少数の無能な人々はクビになりました。反対に、会社に残ることができた人々は、首を切られないようにコネなどを使って動いた、自分の手腕に誇らしげな気持を抱いていました。要するに、一つの会社の中で、生き残った人々と、首を刎ねられた人々とで、くっきりと明暗が分かれてしまったのです。生き残った人々は、首を刎ねられた人々を押しのけたために、会社に残ることができたのです。
そんな時、語り手は、野辺で牛が密殺されるところを目にします。「密殺」とは、非合法に家畜を屠殺することを言います。作品は、人員削減の話から、突然、この屠殺の描写になり、場面の切り替えが印象的です。「尺余」(しゃくよ)というのは、一尺余りという意味で、つまり30センチよりやや長いくらいです。その尺余の長いメスを使って、屠殺人は牛の心臓を突きます。その上で、鉄槌が牛の脳天を割り、牛は膝を折って座り込んでしまいます。さらに、屠殺人が牛の腹を裂くと、鮮血が溢れ、地面を汚します。その時、語り手はあるものを目にします。それは、「牛の尻の穴から先を争って逃げ出す無数の寄生虫」です。この連は、この寄生虫を語り手が「目撃」するところで終わっています。そして、次の「生き残ったつもりでいた。」という一行によって、この詩はあっけなく幕を閉じてしまうのです。
牛を屠殺する場面の要は、どうやらこの逃げ出す寄生虫の描写にあるようです。しかし、この描写は一体、人員削減の話とどのような関係にあるのでしょうか。そして、「生き残ったつもりでいた。」という最後の一行は、どのような意味を持っているのでしょうか。
これらの問いに対しては、次のように答えることができます。脳天を割られて倒れ込む牛は、人員削減を迫られる会社を表し、その尻の穴から逃げ出す無数の寄生虫は、解雇から逃げのびた人々の姿を表しています。なぜそう言えるのかというと、そのように読むと、この詩の「意味」が初めて明らかになるからです。というのも、「寄生虫」が先を争って牛の尻の穴から逃げ出す様子は、いかにもおぞましく、醜さを感じさせる光景です。先ほどは、会社に勤める人々の間で、明暗が分かれた、と指摘しました。クビになった人々と、会社に残った人々と、運命が分かれたのです。語り手は、クビになった人々を、「生き残ることができなかった敗者」と考え、会社に残った人々を、「生き残った勝者」と考えていました。しかし、この寄生虫のもがく様子をみて、語り手ははっと真実に気づきます。自分の姿は、まさにこの醜い寄生虫と同じなのではないか、と。自分は人員削減という危機にさらされても、自分自身の手腕で勝ち組に入り、生き残ることができたと思っていた。しかし、それは本当は、醜い存在に成り下がってしまう行動だったのではないか。自分が「無能」な人々と見下していた、首を刎ねられた人々の方が、実は勝ちを掴んでいて、反対に自分は、人間として何か大切なものを失ってしまったのではないか——、そんな思いに囚われたのです。
これが、「生き残ったつもりでいた。」という末尾の一行の意味です。つまり、語り手は、自分は生き残った「勝ち組」のつもりでいたけれど、本当は大切なものを失った「負け組」に入っていたのではないか、と考えているのです。
この詩を支えているのは、「小の虫は首刎ねられ」という表現です。ここで、語り手は、首を切られた人々を、「少数派の虫」という言葉で表しています。この表現からは、語り手がいかにこの人々を見下しているかが伝わってきます。先ほども指摘したように、語り手は、自分が助かるためにこの人々を押しのけ、踏み台にしていたのです。しかし、会社に残った人々こそが、実は「寄生虫」に相当しているのだ、という転換が、この詩に取り入れられている仕掛けです。
このように、この詩は、人間の品性というものの大切さを訴えている作品です。「勝ち組」というものは本当は負けているのではないか、という逆転の発想が、この作品を詩に昇華させていると言えるでしょう。タイトルの「記録」は、この詩の内容が、一つの記録のような文体で書かれていることに由来しています。