まど・みちお「さくらの はなびら」を読む

えだを はなれて
ひとひら

さくらの はなびらが
じめんに たどりついた

いま おわったのだ
そして はじまったのだ

ひとつの ことが
さくらに とって

いや ちきゅうに とって
うちゅうに とって

あたりまえすぎる
ひとつの ことが

かけがえのない
ひとつの ことが

 この詩の中では、桜の花びらが地面に辿り着くことについての、二つの考え方が対置されている。
 一つ目は、桜の花のそのような現象を、何かの「終わり」と考え、またそれを「あたりまえ」な出来事と感じる感性だ。これはつまり、我々が普段している捉え方と同じであり、言い換えれば、世の中に流布している既存の考え方であると言える。
 二つ目は、桜の花の地面への到着を、何かの「始まり」であると捉えて、「かけがえのない」現象であると考える感じ方である。これは、非常に革新的な発想であると言える。だが、具体的にはどこが革新的なのだろうか。この二つ目の感性について、詳しく見ていこう。
 まず、特徴として挙げられるのは、「さくらの はなびら」を、桜の木を形成する一つのパーツとして捉えるのではなくて、むしろ、宇宙を形成する一つの物体として捉えているところである。
 花びらを、桜の木を形成するものとして捉えると、それが地面に落ちることは、桜の木の一部としての役目を終えたことになるので、紛れもなく「終わり」である。しかし、ここでは、そうではなく、宇宙を形成している一つの物体が動いた、と考えているのである。
 次に、この物体の動きが、「うちゅう」全体の運命を変えてしまっているのではないか、という発想がある。だから、作者は、そのことを「かけがえのない」現象であると述べているのである。
 だが、注意しておきたいのは、作者はここでは、必ずしも、「さくらの はなびら」の存在を特別視しているわけではない、ということだ。おそらく、これが、例えば、紅葉した楓の一枚の葉でも、良いはずである。ただ、物体の、一つ一つの動きが、「うちゅう」全体の運命を変化させるのではないか、というのが、作者のまどの発想なのである。
 「さくらの はなびら」を、単に一本の桜の木を形成する一部分として捉えるのではなくて、「うちゅう」全体の中に属する一つの物体として捉えること—、そこには「うちゅう」規模の大きな視点がある。そして、その視点と、我々が普段している物の捉え方との間には、恐ろしいほどの隔絶がある。そのような視点を内包したこの詩は、極めて哲学的な内容の作品であると言えるだろう。

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