言葉には<意味>があるという幻想 —井坂洋子の詩「粉雪」について—
今回は、詩人・井坂洋子の詩「粉雪」について見ていきます。
粉雪 井坂洋子
ポケットから手をだして歩きなさい
転んだらあぶないから
と小学生のときに言われて以来
忠実に守っている
深い空の
ほころびから
菓子くずみたいに粉雪がこぼれはじめ
マフラーやコートに
ふりかかる日
私はコツコツと 靴音を友にしながら
ポケットに手を入れて歩く
だれに注意を受けたのかはもう忘れた
先生らしき人からの
小さいときの教えを
指の間に握りしめて
私はポケットに手を入れて歩く
この詩を一読した時点では、作品の語り手は、変なことを言っているように感じられます。なぜなら、一方では、「ポケットから手をだして歩きなさい/転んだらあぶないから/と小学生のときに言われて以来/忠実に守っている」と述べておきながら、もう一方では、自分は「ポケットに手を入れて歩(いて)」いると言っているからです。これは、まるで矛盾したことを言っているように思えます。そのため、一瞬、この語り手は、自分の発言とは必ずあべこべな行動を取るという特徴を持った人物なのか、と決めつけてしまいがちですが、それは間違った解釈です。
作品をよく読むと、なぜこの語り手が、「ポケットに手を入れて歩(いて)」いるのか分かります。「先生らしき人からの/小さいときの教えを/指の間に握りしめて/私はポケットに手を入れて歩く」。このような記述を読んだ上で、よく考えてみましょう。すると、語り手である「私」は、先生と思われる人物から受けた「小さいときの教え」を、降りかかる雪から、物理的に守っているのだという事実が読み取れます(ちなみにこの雪を表す「粉雪」がタイトルです)。ただし、普通の人と語り手とでは、「守(る)」という言葉の使い方が異なっています。普通の人は、「教え」を「忠実に守(る)」と言ったら、「教え」の言葉の意味に背かないように行動します。しかし、この詩の語り手は、自分の掌の中にその言葉が在るというイメージを抱いていて、その言葉を物理的に保護しようと(守ろうと)しているのです。つまり、語り手は、「先生らしき人」の言葉を掌で包んだ上、その手をポケットに入れることで、それをより強固に守っているのです。
この語り手の、「先生らしき人」の注意の言葉に対する反応の仕方は、一見、まるでトンチンカンであるように感じられます。しかし、ここで一度、語り手の立場に寄り添ってみましょう。語り手の目には世界がどのように映っているのか、想像してみるのです。語り手にとっては、「教え」というものを指の間に包んで保護することこそが、「教え」を守ることなのでした。そんな語り手からしてみれば、「手をポケットから出す」などという行為は、逆に、全く「教え」を保護していない、トンチンカンな行為と感じられるのではないでしょうか。
このように、我々と語り手の間には、見解の相違があります。それは、そもそも、両者の「言葉」に対する認識の前提にズレがあるからだと考えられます。どのようなズレかというと、我々が、「言葉」を、<意味>の発生する<記号>であると考えているのに対し、語り手はそれ(「言葉」)を、発話する際に発せられた“音”、もしくは空気の波動として認識しているのです。
つまり、語り手は、「言葉」というものを、空気という具象のモノとして把握していて、それを手の中で大切に保護しているのです。このような語り手の考え方は、我々の「言葉」に対する認識に、一石を投じるものであると言えます。
というのも、我々は、言葉というものが<記号>であると、信じすぎてはいないでしょうか。言葉というものは、本当は、空気という具象のモノであるはずなのです。そこに、<意味>が発生しているというのは、実は一種の幻想であると言えるでしょう。
このように、この「粉雪」という詩は、一見、変わっているとも感じられる語り手の考え方を通して、我々の偏った思考にメスを入れる作品であると言えます。