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獣の仮面、人間の仮面 —小池昌代の詩「獣たち」について—
今回は、詩人・小池昌代の「獣たち」という詩について見ていきます。
獣たち 小池昌代
あの日
丘の上にある
K美術館から
車椅子の男が物凄い勢いで
急な坂道を下ってきた
丘の上にはひなぎくが咲いている
(あのあたりがいつもより騒がしく見える)
車椅子の車輪がぎりぎり、みちをこすり
男の目の玉はおそろしく前をみはり
わたしたちは見ていた
男は死んだ
だれひとり泣かなかった
みんなそこに居ただけ
声のない真昼が青空にすいこまれる
(見ましたか?)と、誰かが尋ねる
静かな昼に
(見ましたか?)と
証人たちは陽気にあふれていた
この詩の中では、一つの死が描かれています。車椅子の男が急な坂道を凄いスピードで下ってきて、そのまま止まることができずに、死んでしまったというのです。作中には、男が元々いた場所である「丘の上」が、「いつもより騒がしく見える」とあります。このことから、この男は誰か複数の人物に、いたずらで車椅子を坂の方へ押されたのかもしれないという読みが、あくまで可能性としてですが、浮上してきます。いずれにせよ、足の不自由な男という、弱者の立場にある者が、非常に悲惨な状況に陥り、その果てに命を落としてしまったのです。この出来事を見聞きした人なら、人間として誰もが、痛切な感情を抱く、そんな事件であるように、一見、思えます。
しかし、実際には、この事件に居合わせた人々の反応は、そうではありませんでした。語り手を始めとする、事件を目撃した「証人たち」は、「だれひとり泣かな(い)」どころか、「陽気にあふれて」さえいたのです。彼らの内の一人は、不謹慎にも、他の一人に、「見ましたか?」などと尋ねる始末でした。
以上が、この詩の内容です。事件を目撃した「証人たち」の薄情かつ不謹慎な様子について、たった今、触れました。たしかに、この詩は、目撃者たちの不謹慎さを批判し、読者に対して「そうあってはいけない」と諭すことで、道徳というものを説く作品であるとも読めます。しかし、読者に向かって道徳を説くということが、詩の本来の仕事でしょうか。そうではないように感じます。だから、この詩から、「弱者に対して薄情ではいけない」という教訓を引っ張り出して、それで読み解けたと考えるのは、いささかもったいない読み方であるように思うのです。
そう思って、再びこの詩を読むと、一つのことに気づきます。それは、目撃者たちの薄情な態度に含まれているリアリティーです。「見ましたか?」と尋ねた人物の不謹慎さは、私たちに不快感を催させるものでもありますが、この人物の心情を考えてみてください。こうした事件に遭遇した際、私たち自身も、多かれ少なかれ、同じような心情を抱いてしまうでしょう。その心情とは、すなわち、「照れ」です。この事件のような衝撃的な出来事を目にした時、私たちは、咄嗟に、驚く気持や同情の気持を表すことを照れ臭いと感じてしまいます。その照れは、ある意味で、私たちの自己防衛本能であるとも考えられます。というのも、このような出来事を前に、騒いだり慌てたりすれば、周囲の人から失笑されるのがオチだからです。作中には、「だれひとり泣かなかった」とありますが、泣くなど、もってのほかなのです。つまり、衝撃的な事件を目の前にした時に、私たちは、咄嗟に、非情な態度を取ります。それというのも、その方がスマートであるとされるからです。そのようなスマートな反応をすることによって、私たちは他者から嘲笑されることを避け、自分を守っているのです。
ところで、タイトルには「獣たち」とあります。これは、作中の「証人たち」、つまり、語り手を含む「わたしたち」を指していて、目撃者たちの態度が人間とは思えないような非情な態度であることを指摘するものです。しかし、既に私たちは、こうした非情な態度が、私たちの間ではスマートな反応であるとされていることを見てきました。つまり、時として、私たちは、あえて「獣」の仮面を被るのです。もちろん、私たちは、その反対に、高貴な態度の象徴としての「人間」の仮面を被ることもあります。その「人間」の仮面を被る時は、私たちは、人として正しい行いをするのです。ですが、今回のような衝撃的な事件に際した時、私たちは、「人間」の仮面ではなく、「獣」の仮面を被ってしまいがちです。弱者の不幸という、それに直面した際に最も人間性を発揮すべきである場面において、「獣」の仮面を被ってしまうこと、ここに、この詩の作者は矛盾を見出しているのではないでしょうか。
つまり、こういうことです。この詩は、単に、「弱者に対して薄情ではいけない」と、道徳を説いているのではありません。そうではなく、薄情な態度というものが、私たちが自分自身を守るために必要であることを踏まえた上で、しかし、最も人間性を発揮すべき時に、いつも薄情な態度を取ってしまうおかしさを指摘しているのではないでしょうか。私たちは、事件が痛切なものであればあるほど、照れを感じ、スマートに振る舞おうとします。つまり、「人間」の仮面が必要な時にいつも、「獣」の仮面を被ってしまうのです。そのことの矛盾を、この詩は指摘しています。