我々の偏った思考 —辻征夫の詩「本草学」について—
今回は、詩人・辻征夫の「本草学」という詩について見ていきます。
本草学 辻征夫
さむらいふたり
河原にたっている
ふたりどうじに
かたなをぬく
ひとりがたおれる
どさっ
と
ということもなく
河原にたっている
さむらいふたり
そのふたりの会話
——貴公、房州の浅蜊は
鳩の幼虫だとは思わぬか
——さよう、冬の雀は
小石でござる
この詩の中には、二人の「さむらい」が登場します。平仮名で書かれていますが、この「さむらい」とは、“侍”、つまり江戸時代の武士のことを指します。この詩は、そうした「さむらい」の像として、二つのイメージを用意しています。
一つ目は、河原に立っている二人の「さむらい」が、同時に刀を抜き、目にも止まらぬ速さで一人がもう一人を斬りつけ、斬られた方の「さむらい」がどさっとその場に倒れる、というものです。作中で提示される、「さむらい」にまつわるこのようなイメージを、ここでは仮にAの「さむらい」像、と呼びましょう。
次に、二つ目のイメージについてです。このイメージにも、やはり、河原に立っている二人の「さむらい」が登場しますが、今度は、この二人は刀を抜かず、代わりに下のような会話を交わします。
——貴公、房州の浅蜊は
鳩の幼虫だとは思わぬか
——さよう、冬の雀は
小石でござる
このような会話を交わす「さむらい」のイメージを、仮に、Bの「さむらい」像、と呼ぶことにします。この二人の会話は一見、まるで意味不明に感じられますが、作品のタイトルを見ると、その意味が明らかになります。「本草学」というタイトルの通り、この二人の会話は、まさに、「本草学」にまつわるものだったのです。「本草学」とは、現代で言う博物学のような学問のことを指します。この二人の、「房州の浅蜊は/鳩の幼虫」ではないか、とか、「冬の雀は/小石」である、などの会話は、「本草学」に関係しているものだったのです。
さて、ここまで見てきたような、AとBの「さむらい」像が、作中には登場します。作品は、まず、「さむらいふたり/河原にたっている」と語った上で、Aのイメージを提示しますが、実はそれは語り手のただの想像で、実際にはこの「ふたり」はBのイメージに該当する「さむらい」だった、という展開を取っています。
ここで、AとB、それぞれの「さむらい」像について、詳しく検討していきたいのですが、その前に、この詩を一読した際に感じる、それぞれの印象について、挙げてみましょう。
まず、Aのイメージは、至極まっとうな「さむらい」像を反映していると、この詩を読んだ誰もが指摘すると思います。異様なところがどこにもない、読んでいるこちらに安心感さえ与えるかのような、安定した「さむらい」像です。
それに対して、Bのイメージは、かなり異質で、読んでいるこちらを不安にさせるような性質のものです。そこでの二人の「さむらい」の会話は、たとえこの二人が「本草学」について話しているのだとこちらが理解していても、思わず、この二人は頭がおかしいのではないか、と疑ってしまうようなものであり、とにかく違和感を感じさせる会話です。……ともあれ、このような、AとB、それぞれに対する我々の印象を踏まえた上で、この二つの「さむらい」像について、詳しく考察していきます。
さて、まずBのイメージから、検討していきましょう。Bにおける二人の「さむらい」の会話が、「本草学」にまつわるものであることは、タイトルを見れば分かります。しかし、この二人の会話は、江戸時代の「本草学」の姿を正しく反映してはいません。いくら、江戸時代の文化が現代の我々のそれより劣っていると言っても、自然の景物に対して、「浅蜊(あさり)」が「鳩の幼虫」に該当するとか、「冬の雀」が「小石」に分類される、などのめちゃくちゃな理解の仕方はしていなかったと、断言できます。ということは、このBのイメージは、江戸時代の「さむらい」の、間違った像であると言えます。史実の「さむらい」の姿とは離れたところに、このBのイメージは存在しているのです。
それでは、Aの「さむらい」像は、どうでしょうか。Aは、一見、江戸時代の「さむらい」の姿を正しく反映しているように見えます。しかし、よく考えれば、「さむらい」同士が突然斬り合う、しかも目にも止まらぬ速さで相手を倒す、などというのは、映画や漫画を通じて我々が勝手に拵えた「さむらい」像なのではないかと推測されます。たとえば歴史の専門家に意見を訊いてみると、江戸時代が本当に殺伐とした時代だったか否かが分かると思うのですが、それを俟つまでもなく、このAの「さむらい」像に、どことなく芝居がかったところがあるのは、納得できると思います。つまり、Aにおける「さむらい」のイメージも、Bと同じように、江戸時代の「さむらい」の実像とは解離したものなのです。
ここまでで、AもBも、史実とは異なるという意味で、どちらも“誤った”、「さむらい」の像であると指摘できます。言い換えれば、偽りの「さむらい」像として、AもBも、本当の「さむらい」の姿からは、同じくらい離れた距離にある、ということです。にも拘わらず、我々は、Aの像には安心感を覚え、Bの像に対しては、違和感を抱いてしまいます。ここに、我々の思考の偏りを見出すことができるのではないでしょうか。
つまり、論理的には、AもBも、等しく、偽りの「さむらい」像なのですが、我々は、そのAとBを、無意識に差別しているのです。「それは当然だ。だってAは普通で、Bは異常じゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、実はその差別には、まるで根拠がないのです。
我々人間は、普段、自分たちのことを、論理的に思考する生き物であると考えています。しかし、実は、偏った思考によって物事を把握する、人間とはそのような存在であると言えるのではないでしょうか。この詩を読んだ後は、そのような偏りに満ちた存在として、人間というものを理解したくなります。