谷郁雄「風穴」を読む

社会に
風穴をあけようと
思って
頑張ったら

自分の心に
大きな
穴があき

その穴を
社会の風が
気持ちよく
吹きぬけていく

 この詩がその全体で表現したいことは、おそらくユーモアというものであろう。このように、この詩の趣旨そのものは把握しやすいが、その構造は比較的複雑である。その入り組んでいる構造を、ここでは、分解していきたいと思う。
 まず、各連にそれぞれ登場する、「社会に風穴をあける」、「心に大きな穴があく」、「社会の風」という三つの表現に注目したい。「社会に風穴をあける」は、「社会を変革する」、「心に大きな穴があく」は、「虚しさを感じる」、「社会の風」は、「社会の厳しさ」、ということを、それぞれ表している。ここで指摘しておきたいのは、これらの三つの表現は、既に世間一般で使われている、言ってみれば手垢の付いた言葉であるということだ。しかし、作者は、我々に馴染みのあるこれらの言葉の性質を逆手にとって、全く新しい表現を生み出しているのである。
 その新しい表現とは、「心にあいた穴」と「社会の風」という抽象的な概念を、それぞれ具象化する、というものだ。「心にあいた穴」を「社会の風」が吹きぬけていく—、この発想の斬新さに、この詩の命は宿っていると、私は思う。
 さて、ではどうして、「心にあいた穴」に「社会の風」が吹きぬけるのか? それは、社会に風穴をあけようとしたら、却って、自分自身に「風穴」があけられてしまった、というユーモラスなオチのためである。このオチを理解して初めて、この詩の「意味」を把握したことになる。しかし、この詩を詩たらしめているのは、既に述べたように、抽象的な表現であった「心にあいた穴」と「社会の風」、これらを具象化するという発想であろう。
 なお、この詩の内容が、「社会に風穴をあけようとしたら、自分自身に〈風穴〉があけられてしまった」というものであることは既に述べた。ここまでは、自分にあけられた「風穴」を具体的なものとして、話を進めてきたが、翻ってこれを抽象的なものとして読むこともできることを、最後に指摘しておきたい。すなわち、「社会を変革しようと思って頑張ったら、自分の方が社会に圧倒され、負けを認めざるをえず、却って清々しい気持ちになった」というストーリーを読み取ることも可能だということだ。ただ、どちらの読みを選んでも、語り手にあけられた「風穴」が、いったん、具象化されるというプロセスは、不可避なものとして存在する。その上で、それをそのままにしておくか、それとも抽象的なニュアンスに戻すか、という選択肢が現れる。
 いずれにせよ、この作品の面白さが、抽象的な概念を具象化することによって、使い古された表現に新たな命を吹き込んでいる点にあることは、変わらない。

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