山崎るり子「蜘蛛の巣」を読む

  蜘蛛の巣 山崎るり子

 じゃあね
 バイバイと
 友達との軽い別れのあと
 とてつもなく大きなものの中に
 帰って行かなければならない
 私は
 そのとてつもなく大きなものの
 嫁である
 私はそこで眠り
 そこで湯を沸かし
 そこで朝の支度を
 はじめなければならない
 そんなふうにしていつか
 私が年を取ると
 新しい嫁がやって来て
 そこで眠り
 湯を沸かすのだと
 私より一つ年上の その人は言った
 その夜
 何十年ものの柿の木がたおたおと
 金屏風のように枝を広げている前で
 明治瓦を七三に分け
 白壁に墨を塗りたくった大きなものが
 ふわふわ笑う新しい花嫁を横に
 デえンとかしこまっている夢を見た
 さっきまで嫁であったその人と
 その人の前の年取った嫁と
 そのまた前のもっと年取った嫁と
 何十人もの嫁たちが 
 街路樹のように ずーっと向こうまで
 遠近法で並んでいて
 けわしい顔で
 式の様子を見守っているのだった
 いやあ めでたいめでたい 家に新しい嫁が来た
 これで縁の下の蜘蛛の巣までも
 安泰である と
 大勢の親類縁者が喜びあい
 私は近所の子どもに配る
 祝い菓子の袋を一つもらい
 何も知らない子どものようにはしゃいで
 じゃあね バイバイと
 手を振っているのだった


 この詩は、女性にとって“結婚”という行為は何を意味しているのか、というテーマを取り扱っている作品です。女性が結婚するということの実態は、夫となる男性と結ばれるというよりもむしろ、「夫の家」と結ばれることなのではないか、というのがこの詩の問題意識であると、私は解釈しました(この場合の「夫の家」とは、建物としての家ではなくて、家制度の家であることに注意してください)。
 ここで、実際に作品を見てみましょう。

 じゃあね
 バイバイと
 友達との軽い別れのあと
 とてつもなく大きなものの中に
 帰って行かなければならない
 私は
 そのとてつもなく大きなものの
 嫁である
 私はそこで眠り
 そこで湯を沸かし
 そこで朝の支度を
 はじめなければならない
 そんなふうにしていつか
 私が年を取ると
 新しい嫁がやって来て
 そこで眠り
 湯を沸かすのだと
 私より一つ年上の その人は言った
 
 という箇所があります。
 ここで登場する「私」と「その人」について見て見ると、「私」は女性であり、「その人」も「私」と同世代の女性あると言えます。今引用した箇所は、「その人」が「私」に、結婚というものが何かという問題について語っているその内容になります。「湯を沸かすのだ」までが、「その人」の会話の内容というわけです。しかし、ここで注意したいのは、「その人」の会話の中の“私”は、「その人」自身を指すのではなく、あくまでも「私」を指すのだということです。つまり、「その人」は、「私」に向かって、「あなたは友達と別れた後、とてつもなく大きなものの中に帰って行かなければならない。あなたはそのとてつもなく大きなものの嫁である」と発言しているのです。そして、この「とてつもなく大きなもの」とは、実は「夫の家」を指しています。
 さて、次に、「私」がその夜見た夢の内容について見ていきます。この「私」の夢は、「その人」が嫁いだ先の家の話です。ここでは、この家が、「その人」の次の代の「新しい嫁」を迎える、その婚礼の場という設定になっています。「明治瓦を七三に分け/白壁に墨を塗りたくった大きなもの」の正体は、「夫の家」です。これまでもこの家は、代が替わるごとに新しい花嫁を次々迎えてきました。
 しかし、ここで直接的に描かれているのは、建物としての家です。建物が女性を嫁として取る、という一見ナンセンスな光景には、作者の意図がちゃんとあります。この、「建物が嫁を取る」という描写を読んで、でも嫁を取るのはその建物に生まれた男性ではないのか、と思う人がいるでしょう。ここでやっと、作者の意図は、男性の家系としての家、つまり家制度の家を描くことにあったのだと分かるのです。家制度の家であれば、男性に嫁ぐことは実は男性の家に嫁ぐことである、という考えが成り立つからです。
 このように、この詩は、女性にとって“結婚”とは、実は家制度における家と結ばれることである、という主張をしている作品であると言えます。それを具体化する際に、作者は、建物としての家を登場させることで、読者に違和感を感じさせ、自分の真意を汲み取ってもらう、という手法を取っています。これは、ただ結論だけを書くよりも一見遠回りに見えますが、読者に一瞬考えさせることで、作者の意図をより強調する効果を挙げていると言えるでしょう。
 最後に、末尾の

 じゃあね バイバイと
 手を振っているのだった
 
 について見ていきたいと思います。これは、冒頭の「じゃあね/バイバイと/友達との軽い別れのあと」とリンクしています。末尾で手を振っているのが「私」であることから、冒頭で友達と別れるのも「私」であると推測でき、「その人」の会話に登場する“私”が、「その人」を指すのではなく、紛れもなく「私」を指していることを確認できます。
 また、冒頭と末尾で「じゃあね/バイバイ」がリンクしているのは、末尾の夢から醒めた後、「私」がまた、「とてつもなく大きなもの」(つまり家)の嫁として生きていかなければならないことを表すためであると考えられます。つまり、この詩は、結婚が「夫の家」と結ばれることであるという事実に気づいてしまった「その人」が、そのことに無自覚な「私」に、その事実を教えるという形式を取っていると言えます。「その人」は「私」の<教育者>なのです。
 ともあれ、この詩は、自分は一人の男性と結婚したはずなのに、なぜ「夫の家」に圧迫されないといけないのか、という家制度への批判が根底にあります。家制度と女、というこの詩のテーマは、令和時代にはあまり当てはまらないかもしれません。しかし、作者である山崎るり子の若い頃は、まだこうした、女性を囲む矛盾を指摘するようなフェミニズムの詩が必要とされていた時代だったのでしょう。山崎るり子は、女性の眼で、社会の矛盾を暴き出そうとしたのです。


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