川田絢音「悲鳴」を読む
悲鳴 川田絢音
ひゅう きい
隣のサルデーニャの裁縫師のところに
誰か来ていて
サルデーニャ島特有の
悲鳴をともなって 話している
海で鷗たちが
その声で鳴きながら
ひとつところを飛び交っていた
裁縫師の声も聞こえるが
興奮した女の鋭い節が
圧倒的にひびいてくる
その声を
出してみたい
色々に強くきしらせれば
じぶんの思いというものもみんなそこにこめてしまえそうだ
ああい ひい きゅう
そうすれば隣に聞こえて
サルデーニャの女をからかうことになる
息を引いて
きい と
はじめのところをやってみる
壁を距てて歩く足音がして
やがて
テレビの西部劇の音だけになる
この詩の中では、一つのドラマが繰り広げられている。一体どのようなドラマなのか、順番に見ていこう。
この作品の語り手は、おそらくマンションに住んでいる。語り手の住む部屋の、壁一枚距てた隣には、イタリアのサルデーニャ島から来た裁縫師の男性が住んでいる。その裁縫師の下へ、同じくサルデーニャ出身の女が訪ねにきた。サルデーニャの人々の発音の仕方は、まるで悲鳴のように聴こえるのがその特徴である。壁越しに聴こえる、裁縫師を訪ねてきた女の声は、その悲鳴のような音を鋭く響かせている。その声は、海で鷗たちが鳴いている声と全く同じに聴こえた。語り手は、サルデーニャの人々と鷗が使用する「悲鳴」のような声を、何か特殊な言語であるかのように感じ、その声を自分も出してみたい、と考える。「色々に強くきしらせれば/じぶんの思いというものもみんなそこにこめてしまえそうだ」と。しかし同時に、“悲鳴”に込める「じぶんの思い」は隣の人々には伝わらずに、ただ隣の女の真似をして、彼女をからかっているのだと理解されるであろうことも、語り手は自覚していた。しかし、語り手は、とにかくその声を出してみたいと考え、実際にやってみた。すると、隣の人々はやはり、語り手が自分たちをからかっているのだと受け取ったようで、会話を止めた。隣から聴こえるのは、テレビの西部劇の音だけになってしまったのだ(西部劇の音は、具体的には、英語の会話もしくはピストルの音であると考えられ、語り手が“悲鳴”として捉えてしまうサルデーニャの発音とは異なり、語り手の耳にそのままの意味で捉えられたのだろう)。
さて、以上がこの詩の中に展開しているドラマである。しかし、これだけでは、作者がこの詩を通して我々に何を伝えようとしているのか、よく分からない。何か大切な要素を見落としているようである。
確かに我々は、複数の事実を見落としている。
その見落としている事柄の一つ目は、語り手が一体どこにいるのか、という問題である。私は、この語り手が住んでいるのは、おそらくイタリアのどこかであると考える。ただし、「イタリアのどこか」と言っても、サルデーニャ島以外の地域である。
二つ目は、語り手はおそらく日本人であるということだ。もし日本人ではないにしても、イタリア人以外であると考えられる。——以上の二つから、何が言えるか。それは、語り手が異郷の地にいる、ということである。
三つ目は、ではなぜ、語り手は「じぶんの思い」を“悲鳴”に込めようとしたのか、という問題だ。その答えとして、異郷の地に滞在していることで、語り手が極めて強い孤独感を覚えているから、という事柄が浮かんでくる。そう考えると、語り手が、サルデーニャの女をからかうことになると分かっていながらも、あえて“悲鳴”に自身の思いを載せようと試みたのにも納得する。彼女は、失敗すると分かっていても、自分の思いを叫ばずにはいられなかったのだ。
しかし、“悲鳴”に載せた語り手の思いは、結局、誰にも届くことはなかった。作品の結末では、語り手の孤独感は、ますます強まっているだろうと想像される。
異郷において感じる、ひりつくような孤独。細部を良く読むと見えてくるこの要素を補うことで、このドラマは初めて意味を持ったものとして我々の前に立ち上がるのだ。