高田敏子「橋」を読む
少女よ
橋のむこうに
何があるのでしょうね
私も いくつかの橋を
渡ってきました
いつも 心をときめかし
急いで かけて渡りました
あなたがいま渡るのは
あかるい青春の橋
そして あなたも
急いで渡るのでしょうか
むこう岸から聞える
あの呼び声にひかれて
この詩の中で、語り手は、「少女」に、「橋のむこうに 何があるのでしょうね」と問いかけているのにもかかわらず、「私も いくつかの橋を 渡ってきました」と述べている。つまり、語り手は、既に橋を渡った経験があるのに、橋のむこうに何があるのか知らないのである。この、一見矛盾した状況をどう捉えるかによって、解釈が変わってくる。
私自身は、この状況を、「むこう岸」という言葉の持つ性質に注目することによって読み解こうと考えた。考えてみれば、「むこう岸」には、人間は永遠に辿り着くことはない。なぜなら、「むこう岸」は、そこに着いてしまえば、「こちらの岸」になるからである。だから、「むこう岸」とは、ある一つの地点を指しているのではなく、自分の前に次々と現れる橋のむこう側なのであり、たえず自分の行く手に存在しているものなのではないだろうか。この考えは屁理屈であると思われるかもしれないが、この「橋」が、あくまで人生というものの比喩であることを考えてほしい。「むこう岸」には辿り着くことがないという感覚は、「未来」というものを我々が決して掴むことができないのと酷似していて、まさに人生の実感に沿っていると言えるのではないだろうか。というわけで、「むこう岸」に我々は決して辿り着くことはなく、橋のむこうにある「何か」を掴むことはできないのである。
さて、先ほど、「橋は人生の比喩である」と述べた。しかし、「橋」はただ「人生」を指し示しているのではなく、ある種、限定された「人生」を示している。語り手は、「少女よ」と、若い娘に向かって呼びかけている。また、語り手自身も、その言葉遣いや、作者が女性であることなどから、同じように女性であると考えて良いだろう。したがって、この「橋」とは、女性の人生を示しているのである。また、「橋」という言葉のニュアンスを考えると、それを渡るのには僅かな危険が伴うことが指摘される。この危険は、それを渡る女性に高揚感を与えるものだろう。実際、語り手は「心をときめかし」て渡ったと言う。したがって、この「橋」をイメージするのに際して、女性の人生とは切り離せない、「恋愛」や「結婚」などを想定すると良いかもしれない。もちろん、女性の人生に存在しているのは、必ずしも楽しげな事柄ばかりではないはずである。しかし、どんなことをも心をときめかせながら乗り越えていくという生き方、これは女性がそうありたいと願う、一つの美学を切り取っていると言えるだろう。
さて、ここで、末尾で語られる「あの呼び声」とは一体何なのか、という問題を取り上げたい。この「呼び声」については、何かの象徴であると読み解くなど、いろいろな解釈が可能であると思う。しかし、私は、女性として人生を乗り越えていこうとする人物の期待に脹らむ気持ち、その理由について「説明」するための、一つのフィクションであると取りたい。つまり、ワクワクする心持ちを、「呼び声にひかれている」と表現したのである。つまり、この詩は、一つのフィクションを加えることによって、女性の心理を見事に掬い取った一篇であると言えよう。
また、この作品は、女性の人生に不可欠な、恋愛や結婚を読者に連想させながらも、ここで描かれる女性性は、必ずしも男性性と対置されていないことに注目すべきである。女性詩人の手による、女性の生き方を題材とした詩においては、自分達の権利を主張する作品、つまり男性に対抗する内容の詩が圧倒的に多い。しかし、この詩では、あえて男性を意識しないところに女性の存在を置いている。そのことは、女性だけに聴こえるという「あの呼び声」に顕著である。「あの呼び声」を聴くことのできる存在—、それが、この詩における女性の定義なのである。