揺らぐ自己像 —井坂洋子の詩「私はテレビ」について—
今回は、詩人・井坂洋子の詩「私はテレビ」について見ていきます。
私はテレビ 井坂洋子
ルノアールの豊満な美女たちは
みただろうかテレビを
午後三時そよぎもしない空
テレビになってテレビをみている
テレビみる不安を
紛らすためにテレビをみる
食べながらみつづける
午後六時のにび色の空
テレビみる不安に駆られて
またテレビをつけている
テレビに殴られて声をあげる
深夜二時半 眠りながらみつづける
ふいに抱きしめられ
私が消える
この詩の語り手である「私」は、テレビの前から離れられない、「テレビ依存症」に陥っています。このように、テレビに依存してだらだらとした毎日を送ってしまうという事態は、しかし、特に珍しい話ではありません。尤も、現在はテレビよりもむしろスマートフォンの中毒に陥っている人のほうが多いと思われますが、一昔前であれば、一日中家にいる人で、毎日テレビ三昧という人は、多かったと考えられます。そのような例の中でも、特に主婦が、毎日お菓子を食べながらテレビを観て、ごろごろしているという光景は、容易に想像がつく、身近なものであると言えるでしょう。
この詩の語り手の「私」も、そうした主婦の一人であると推測されます。この「私」がなぜ女性であると断言できるのか、その根拠については、後ほど詳しく話したいと思います。ともあれ、作中の「テレビみる不安を/紛らすためにテレビをみる」という表現から、この「私」が典型的な「テレビ依存症」であることが分かります。
それにしても、「私」を含めて、あらゆる「テレビ依存症」の人は、なぜ、テレビの前から離れられないのでしょうか。この詩は、このような問いについて、一般的な答えとは全く異なる独特な答えを用意しています。その答えとは、「テレビを観ている人がテレビになっているから」というものです。——それは一体どういうことだ、と思われるかもしれません。この答えの意味について、以下に説明しましょう。
人間がテレビの前から離れられないのは、テレビを観ている人物が、テレビになってしまっていて、元々テレビであったものが、テレビを観る「人」になっているからであると、この詩は考えています。というのも、テレビのスイッチは、テレビを観ている人が操作します。だから、人間がテレビの前から離れられない、言い換えればテレビのスイッチを消せない、という状況が現実にあるとしたら、その状況には、絶対に何か秘密が潜んでいるに違いない、この詩の作者はそう考えました。そこで、考え出した「秘密」が、「人間がテレビを観ている時、実は人間の方がテレビになっていて、スイッチを操作されている」というものなのです。実際、作中には、
テレビになってテレビをみている
という一行が挿入されていますし、タイトルからして、「私はテレビ」という題になっています。つまり、語り手の「私」の正体は、元々は紛れもなく人間ですが、その「私」は、テレビを観る時だけ、テレビになっていると、この詩は主張しているのです。
その主張を頭に入れて、この作品を読んでいきましょう。まず、冒頭では、「ルノアールの豊満な美女たちは/みただろうかテレビを」という二行にぶつかります。次に、「私が」テレビの前から離れられないことを描写する記述が続き、最後に、
ふいに抱きしめられ
私が消える
という二行に行き着きます。ここで、「私」は一体誰に抱きしめられたのでしょうか。「抱きしめられ(る)」という記述を読むと、我々は、誰かから強く抱きしめられる感触をイメージします。その感触のイメージに、響き合う記述が、作中の前の方に登場していたような気がします。——そう、それは「豊満な」という語です。ここで、作中の「私」は、「豊満な」肉体の持ち主に抱きしめられたのではないでしょうか。そう考えると、ではその人物は、なぜ「豊満」な身体つきをしているのか、という疑問が浮かびます。それについては、まさに、その人物が物を食べながらテレビを観て、ごろごろしていたからだ、と推測されます。つまり、「私」を抱きしめたその相手とは、「私」と同じように、テレビを観ながらごろごろしていた女性なのです。
ここで、先ほどの「テレビになってテレビをみている」という記述を振り返りましょう。この時、人間であるはずの「私」は、なぜかテレビになっているのでした。ということは、「私」を抱きしめた女性は、テレビであるはずなのに女性になっているモノ、ではないでしょうか。つまり、こういうことです。ここに、二つの物体があります。その内、片方は人間の女性(「私」)であり、もう片方は、その「私」が見ている「テレビ」なのでした。しかし、それは仮の現実なのであり、その実相は、人間だと思っていた「私」は、実はテレビで、「テレビ」と思っていたモノは、実は人間の女性なのでした。だからこそ、末尾に、「私が消える」とあるわけです。ここでは、テレビである「私」が、そのスイッチを切られる、という意味で、この一文が綴られています。テレビであったはずのモノが、実は「豊満な」女性であることから、それと相対するように考えると、「私」も元々は、太った女性だったのではないか、ということが推測されます。
このように、この「私はテレビ」という詩は、人間がなぜテレビの前から離れられないのか、という問題について、それは、人間がテレビになっていて、テレビが人間になっているからだ、と答えています。この考えは、俄には受け入れがたいかもしれません。そこで、この詩の作者である井坂洋子の詩の特徴について説明したいと思います。そのために、渡邊十絲子(わたなべとしこ)という詩人の井坂洋子論を引用します。
井坂洋子の詩においては、「わたし」の像がいつも揺らいでいる。くっきりとした人のかたちの輪郭線にかこまれた揺るがぬ自分像など、探してもどこにも見当たらないほどである。(講談社現代新書、渡邊十絲子、『今を生きるための現代詩』、p,160)
と、渡邊十絲子は指摘しています。その上で、渡邊は、井坂の詩における自分像の在り方を肯定します。
鏡をのぞきこんで、そこにうつったものが人間のかたちであると見るのは、感覚の感度がそれほどよいわけでもない視線であり、かたよった先入観にあらかじめ染められた意識である。われわれは、自分で思っているほど、純粋に視覚のちからでものを見ているわけではない。(同書、p,164)
このように、渡邊十絲子は述べ、自己というものが「人間」のかたちを取っていることを信じ込むことの危うさを指摘している、言い換えれば、確固たる自己の存在を否定しています。このような渡邊の井坂論を参考にした上で、「私はテレビ」に戻りましょう。
「私はテレビ」にも、渡邊が井坂の詩の特徴として指摘するような、「揺らぐ自己像」が反映されていると言えます。ここでの「私」は、元々は人間であったのに、いつの間にかテレビになっている存在です。この作品のテーマは、実は、「自己像の揺らぎ」というものだったのです。そのようなテーマを内包しながら、この作品は、直接的には、「テレビの前から離れられない」という、我々の日常の中に潜む、不思議とも言える現象の謎に答える形を取っています。「人間がテレビになっているから」という、この画期的な答えには、詩人・井坂洋子の透徹した目が反映されています。