湧いて出てきた我々 —井坂洋子の詩「瞼」について—
今回は、詩人・井坂洋子の「瞼」という詩について見ていきます。
瞼 井坂洋子
人に会うたびに
左のまぶたが痙攣しはじめる
トイレに立って
アッシジの石で冷やす
聖フランチェスコ教会の崖で
拾った石
主題というものはない
と 通訳兼ガイドは言った
バスの最後部で からだを全部
ゆすりあげながら
白人夫婦が笑っていた
夜明け近く
乾いたまぶたの奥
私自身を追跡しつづける夢の傍らで
猫は壺のように己を抱いて眠っている
ほんの数ミリほどの羽虫が
蛍光灯にぶつかってくる
枕もとに落ちて 顔を近づけてみると
死後にも魂がのこるなんて
嘘くさい気がする
きっと 自分も どこからか湧いてきた
それだけのことなんだ
この詩が読者に最も伝えたいことは、作品末尾の二行に凝縮されているようです。「きっと 自分も どこからか湧いてきた/それだけのことなんだ」。ここで繰り広げられている主張は、強烈な印象を我々読者に残します。蛍光灯にぶつかって落ちてきた「ほんの数ミリほどの羽虫」のように、我々人間という存在も、「どこからか湧いてきた」だけの、取るに足りないものなのだ。——そのような衝撃的な主張を内包している末尾の二行ですが、その少し前の箇所を見てみましょう。
死後にも魂がのこるなんて
嘘くさい気がする
ここで、死後にも魂が残る「なんて」、嘘くさいようだ、と語り手は語っています。ここに挿入されている、「なんて」という表現に注目して下さい。この「なんて」があることによって、「死後にも魂が残る」という言葉は、もしかしたら、誰かの発言を引用しているものなのかもしれない、という可能性が浮上します。なぜなら、「〜なんて」とは、「〜などと誰々は言うけれど」というニュアンスを含む表現だからです。
では、「死後にも魂がのこる」という言葉は、一体、誰が口にしたものなのでしょうか。それについては、作中に登場する「白人夫婦」であると考えられます。その「白人夫婦」が登場する箇所を見てみましょう。
主題というものはない
と 通訳兼ガイドは言った
バスの最後部で からだを全部
ゆすりあげながら
白人夫婦が笑っていた
この五行を読んだ時、まず、「主題というものはない」という言葉を、「通訳兼ガイド」が口にしているという事実が把握できます。この引用箇所より前の部分を見ると、これは、語り手が、イタリアのアッシジの「聖フランチェスコ教会」に観光に来たときの話なのではないかと推測されます。だから、観光バスの「通訳兼ガイド」が登場するのです。この「通訳兼ガイド」は、「主題というものはない」という言葉を口にしていますが、この言葉については、実は語り手の発言を、この通訳が外国語に訳したものではないかと考えられます。なぜなら、「主題というものはない」という主張は、「自分も どこからか湧いてきた」という語り手の考え方にどこか似通っているようにも思えるからです。こう解釈する場合、「主題」という表現は、“人生の主題”という意味を持ちます。「人生には主題というものはない」という主張は、「どこからか湧いてきた」羽虫のような自分の生、という主張と、響き合うものがあります。つまり、人生には、重要な意味などない、という考え方が、両者に共通しているように読めるのです。
このように、観光バスの中で、「通訳兼ガイド」は、語り手の日本語での発言を外国語に訳して説明しました。すると、なんと、「バスの最後部で からだを全部/ゆすりあげながら/白人夫婦が笑(い)」出したというのです。これは、語り手の発言(を通訳が訳したもの)が、「白人夫婦」の失笑を買ってしまったことを表しています。
この「白人夫婦」が語り手の考え方に大笑いしているということは、この夫婦は、語り手とは対立した考え方を抱いているということです。その「対立した考え方」が、すなわち、「死後にも魂がのこる」という考え方なのです。もちろん、実際にこの夫婦がこの考え方を口に出して主張したかについては分かりません。しかし、作中には、二つの対立した考え方が登場し、語り手は一方の考え方を、「白人夫婦」はもう一方の考え方を支持しているのではないか、という解釈ができます。
ところで、ここで、語り手が観光で訪れたこの場所が「教会」であることに注目しましょう。「教会」に訪れていて、かつ「白人」であるということなので、この夫婦が敬虔なクリスチャンであるという可能性が浮上します。その上で、「死後にも魂がのこる」という考え方はキリスト教のものなので、その可能性はより強まります。そもそも、この観光バスにはクリスチャンが多く乗っているのかもしれないとも考えられます。そうだとすると、「死後にも魂がのこる」と信じる人の群れの中で、語り手はそれとは異なる考え方を抱いていることになります。
ここで、作品冒頭の六行について見てみます。
人に会うたびに
左のまぶたが痙攣しはじめる
トイレに立って
アッシジの石で冷やす
聖フランチェスコ教会の崖で
拾った石
冒頭では、このように、「まぶた」についての記述が展開されています。語り手の「左のまぶた」は、なぜか、人に会うたびに痙攣し始めるのでした。語り手は、そういう時は常に、その痙攣部分を、「聖フランチェスコ教会の崖で/拾った石」で冷やすことにしているのだそうです。この「石」を拾った、という出来事は、もちろん、先ほどのアッシジの観光の際の話として設定されています。なぜ語り手の「まぶた」が痙攣するのか、そしてなぜそれを「アッシジの石」で冷やすのか、これらの謎を解くために、第二連の最初の四行を見てみましょう。
夜明け近く
乾いたまぶたの奥
私自身を追跡しつづける夢の傍らで
猫は壺のように己を抱いて眠っている
この四行では、語り手は、「夢」の中で自らを「追跡」していると主張しています。そして、その「夢」は、「まぶた」の奥で展開されるものなのでした。ここで、先ほど登場した「まぶた」が再び出てきました。語り手が「まぶた」の奥で自分自身を追跡しているということ、人に会うたびにその「まぶた」が痙攣すること、さらに、語り手がバスの中で失笑を買ったこと——、これらを考え合わせると、次のようなストーリーが浮かびます。
すなわち、語り手が「まぶた」の奥で自分自身を追跡しているというのは、自分という存在が一体何なのか、哲学的な思索を繰り広げていることの謂ではないかと推測されます。そのような哲学的な思索の中で、語り手は、人生というものに重要な「意味」があるとはどうしても思えなかった。しかし、世の中の人々のほとんどは、人生には「意味」があると思い込んでいる。そのため、「それは違う」と主張したくて、「人に会うたびに」、思索を内に宿した「まぶた」が痙攣し始めるのではないでしょうか。聖フランチェスコ教会で「白人夫婦」に失笑された際も、人々の考えを正したくて、「主題というものはない」と発言してしまったと考えられます。しかし、そこで語り手は笑われてしまった。語り手は、その失敗を教訓にして、これからは他人の前では「主題というものはない」という自説をむやみに主張しないようにしよう、と決意した。それで、人に会うたびに痙攣する「まぶた」を、失敗の記憶と繋がっている「聖フランチェスコ教会の崖で/拾った石」で冷やし、自分を戒めているのではないでしょうか。
ところが、語り手は、自分自身の思索の世界において、「主題というものはない」という考えを捨てることはできなかった。だから、「きっと 自分も どこからか湧いてきた/それだけのことなんだ」という考えを、どうしても持ってしまうのでしょう。
以上が、この詩のストーリーです。改めて、末尾の二行、「きっと 自分も どこからか湧いてきた/それだけのことなんだ」を見てみましょう。我々はどうでもよい存在として生まれ、死んでいくだけなのだ、という主張を、羽虫が生まれる様を表す「湧(く)」という言葉で言い止めています。この「湧(く)」というのは、生命の神秘、あるいは人生の厳粛さというものを全て無化してしまう強烈な言葉です。「人生に意味はない」というのは、哲学の世界でも言われていることですが、それを「湧(く)」という言葉で表現しているところに、この詩の魅力があるように思います。