サラリーマンの苦悩 —吉野弘の詩「君も」について—
今回は、詩人・吉野弘の「君も」という詩について見ていきます。
君も 吉野弘
僕と同じように 君も
ささやかな朝の食事のあと
鏡にうつしたワイシャツ姿の首を
ネクタイで締め上げ
苦悩の人が死ぬのを見届けてから
此処へ来たのだろうか。
みがかれた靴をはき
家族とさよならをして。
朝のひととき
机に積み上げた書類の山を前に
一服の煙草を
うまそうに吸っている
親しい友
かすかに不敵な横顔。
だが いつまで持ちこたえるだろう
苦悩の人を殺しまた甦らせるくりかえしを。
蘇りのときの
次第に稀になってゆく焦燥の中で
ぼんやりと
夜
ラジオ番組の全部を
聞き終えてしまうことはないか
僕と同じように
君も。
この詩は、毎日働かなければならないサラリーマンの苦悩を描いた作品です。働くということは、本来、自分を少しずつ磨り減らしていくことなのかもしれません。たしかに、下げたくない頭を下げなければならなかったり、忙殺される日々を送ったりするということだけでも、労働によって自分が磨り減っていくという考えは理解できると思います。しかし、この詩の作者である吉野弘はおそらく、次のような理由で、働くことが人間を摩耗させると考えているのだと推測されます。それはすなわち、人間が道具化されるということです。仕事という場では、その人物の存在そのものを無条件に必要としているわけではありません。その人物がある役割をこなし、演じ切ることを求めているのです。そこでは、作業の効率ということが常に求められます。つまり、人間が一個の優れた道具であることが求められているのです。道具であるということは、他の人物と代替可能であるということです。一人の人物は、本来、他の誰とも替えの効かないかけがえのない存在として扱われるべきであるにも拘わらず、です。こうして、働く人間の尊厳というものは、どんどん失われていきます。
吉野弘が上のように考えているということは、今回取り上げた作品とは別の詩である「さよなら」を読むことによって想像することができます。ところで、今回の「君も」という詩では、このような、働くことが人間の尊厳を失わせるという考えを下敷きにしています。この詩では、労働によって摩耗する人間の存在というものを、ある面白い仕掛けを使って説明しています。その仕掛けとは、会社に勤めるサラリーマンが、毎朝取るある行動を、別の事柄に見立てたものです。というのも、サラリーマンは、毎朝、必ず、ネクタイを締めます。このネクタイを首に巻くという行動を、作者は、自分で自分の首を締め上げる自殺行為に見立てているのです。
鏡にうつしたワイシャツ姿の首を
ネクタイで締め上げ
苦悩の人が死ぬのを見届けてから
此処へ来たのだろうか。
ここでの、「苦悩の人」とは、ネクタイを締めるサラリーマンその人を指しています。このように、この詩では、「ネクタイを締める」という何の変哲もない行為を、自殺行為という穏やかでない事柄に見立てているのです。しかも、この自殺は、一回では終わりません。サラリーマンは、会社から家に戻ると、また尊厳を取り戻します。そのため、作中ではこれを蘇生している状態のように捉え、一度死んだ人物が再び蘇るという状況に喩えています。この自殺と蘇りは、会社と家の間を往復する限り、毎日繰り返されます。そのように、自殺と蘇生を繰り返す内に、サラリーマンは、少しずつ、「自分が磨り減っている」という感覚を失っていきます。そのことは、次の二行に明らかです。
蘇りのときの
次第に稀になってゆく焦燥の中で
この二行では、サラリーマンは、家に帰って息を吹き返す際には毎回、「焦燥」を感じていると言うことが、まず情報として提示されます。しかし、そのような日々の繰り返しの内に、次第に、その「焦燥」を感じる回数が稀になっていくというのです。これは、自分が道具として扱われることに慣れてしまい、違和感を覚えなくなってくるという状況を表しています。自分が道具のように扱われているのに、それに全く気づかないという、これこそが、真に恐ろしい事態であると言うことができます。
さて、作中には、二人のサラリーマンが登場します。すなわち、語り手の「僕」と、その友である「君」です。「僕」は、「君」と同じ会社に勤めているようにも読めます。美味しそうに煙草を吸う「君」の姿を見て、「僕」が呼びかけた内容が、すなわちこの詩の中身になっています。もしかしたら「君」とは、本当は「僕」の友達である人物ではないのではないかとも想像されます。「君」とは、実は読者を指しているのではないかとも考えられるのです。つまり、同じように毎日仕事に出かけ、自分を摩耗させて帰ってくる仲間として、読者に呼びかけ、訴えかけるという形を取った作品としても読めるのです。
ともあれ、この詩の、読者を感動させるポイントとなる箇所は、ネクタイを締めて家を出るという行為を、自殺に見立てるその発想に潜んでいます。靴を履いて家を出るという行為も、たしかに、「家族とさよならをして」いると言えるわけで、その辺りも上手いと感じます。私たちがこの見立ての秀逸さに感動することにより、「労働が人間を磨り減らす」というテーマは、私たちの心の深みまで届きます。
ちなみに、「ラジオ番組の全部を/聞き終えてしまう」というのは、次第に「道具」と成り果てていく己の心と戦いながら、ぼんやりと夜を過ごしてしまうことを表しているのでしょう。