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他者との関係に潜む<きびしさ> —小池昌代の詩「あいだ」について—

 今回は、詩人・小池昌代の詩「あいだ」について見ていきます。


   あいだ 小池昌代

  とおくからボールがころがってやってくる
  けられたボールがころころ、ころがって
  疲れたわたしの方へやってくる
  むこうから男の子が駆け足で追ってくる
  届くのかしら
  届かないのかしら
  届いてほしいような
  届かなくても、ほっとするような
  すると、ボールは ぽとぽと、ゆるまって
  ほんの手前
  つめたくて、すこしあまい距離をのこすと
  わたしに届かず止まってしまう
  あ、と見るわたし
  あ、と見たあのこ
  もちよったじかんが重なり合わない
  こどもと私とボールが在って
  みじかく向き合った名もないあいだ
  悔やむことなんて、きっとなかった
  届かないボールのなんというやさしさ


 この詩は、蹴られたサッカーボールが語り手の元へ転がってきたという出来事を通して、語り手と、ボールを拾いに来た一人の子供との「あいだ」にある、心の距離を描いています。作中の最後から三行目に登場する「名もないあいだ」とは、それより六行手前にある「つめたくて、すこしあまい距離」という表現を踏まえています。だから、この「あいだ」というのは、形式的に読めば、ボールと語り手の距離を指していることになります。しかし、これが、子供と語り手の心の距離を象徴していることは、誰の目にも明らかです。その「心の距離」というものは、具体的には、どちらがボールを拾うのか、互いに計りかねて、自分から「私が(僕が)拾います」とも言い出せない、ちょっとした間のことを指しています。こういう経験は誰にでもあるもので、このもどかしい、人によっては気まずささえ感じるような場面を、語り手は、「届かないボールのなんというやさしさ」と、なぜか肯定的に捉えています。この、一見、コミュニケーションの不具合とも捉えられる状況に、あえて肯定的な側面を見出しているところに、この詩の特徴はまず、あります。
 その上で、その「肯定的な側面」とは、具体的には何なのかという疑問、言い換えれば、語り手が、「届かないボール」という状況を肯定する根拠とは何かという疑問が湧いてきます。それについては、次のような方法で探っていきました。
 すなわち、先ほど語り手は、「届かないボール」というこの一連の状況を、「やさしさ」と表現していました。一般的に、「やさしい」という言葉の対義語として浮かぶのは、「きびしい(厳しい)」という語です。語り手が、「届かないボール」を「やさし(い)」状況として肯定的に捉えているのならば、その反対の「きびしい」状況とは何なのかを考えるという方法を取れば、この作品についてより深く知ることができるのではないでしょうか。
 ここで、先ほど、この詩で描かれている状況について、「コミュニケーションの不具合」と表現しました。作品自身も、「もちよったじかんが重なり合わない」という言葉で、この状況が通常、ネガティブなものとして受け取られるものであることを指摘しています。そのように、二者の時間がうまく重なり合わず、コミュニケーションが円滑にいかない現象を、語り手はなぜか、「やさし(い)」ものとして、肯定的に捉えているのでした。ということは、この語り手は、その反対の、一般的にコミュニケーションが円滑に進んでいると考えられている状況にこそ、「きびしさ」を感じているのではないでしょうか。
 つまり、この詩は、コミュニケーションに不具合が生じるという、一見ネガティブな要素を含む状況を、肯定的に捉えていて、反対に、コミュニケーションが円滑に進んでいるというポジティブに思える状況に、否定的な要素を見出している、そんな作品なのだと言えます。その上で、より作品の核に肉迫する解釈は、次のようなものです。すなわち、この詩が直接的に描き出している、コミュニケーションの不具合という状況の「やさしさ」よりも、むしろ、それを反転させた際に浮かび上がる、コミュニケーションが円滑に進むという状況の「きびしさ」、それこそがこの詩の隠された真のテーマなのではないか——、そう考える読みです。
 ではなぜ、コミュニケーションが円滑に進んでいくことが「きびしい」のでしょうか。それについては、おそらく次のようなことだと想像されます。「コミュニケーションが円滑に進む」、それは、より正確に言えば、人と人との関係を、きちんと結んだ状態であるということです。しかし、語り手の言葉には、きちんと結んでしまった二者の関係を、ただならぬものとして警戒している、そんな気配が感じられます。それは、ひとたび他人と関係を結んでしまうと、相手の言葉に傷付いたり、自分の行動を後悔してしまったりすることは不可避だからでしょう。三行目に「疲れたわたし」とあるのは、語り手がそのような他者との関係に疲れてしまったことを表しているようにも取れ、そんな語り手が「届かないボール」に癒されたのだという、一つのストーリーが浮かんできます。
 もちろん、ここで言う、「関係を結ぶ」というのは、何も友達になるとか、恋人になるということに限りません。一度道端で会話を交わしただけの人との間にも、そうした、のっぴきならなさは生じてしまう。私たちは、例えば、他人から暴力を受けるという場合くらいにしか、他者との関わりでできる「(心の)傷」の存在を認めません。しかし、この語り手は、それよりももっと本質的な「傷」についても、その存在を認識しているのです。言い換えれば、暴力の場合のような、表層の「きびしさ」ではなく、他者との関係というものの本質に根ざす「きびしさ」、それを語り手は指摘しています。
 このように、この作品は、コミュニケーションの不具合、あるいは不成立という状況を肯定的に捉えることによって、コミュニケーションがきちんと成立している状況に潜むネガティブな要素をあぶり出している、そんな詩であるのだと言えます。

 

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