石垣りん「猫がなく」を読む

 詩というものは、読んだ人の心に届いて、初めて成立する……と何かの本に書いてあった。私はこれまで、「読んだ詩が心に届く」という経験をしたことがなかった。詩の中で詠われているメッセージを掴むことは出来るけれど、そのメッセージに本当に共感したことはなかった。
 しかし、石垣りんの『猫がなく』という詩を読んで、私は初めて心の底から詩を面白いと思えた。

ゆきずりに猫を愛撫した
小雨が煙るように降る
夜の十時
人気ない小路で猫を呼び
猫をひきよせ
お前もさみしかろう
と語りかけた
猫はついてきた
けれど門口までくると
家に上げるわけにはゆかない
それには理由がある
(いつだって
そういう時には理由があるのだ)
どこかで誰かが
百まんべんも聞いた言葉
私はかけこんで戸を立てる
拒絶された猫が
しばらくないて泣きやまない
ガリガリ爪をたてて
なきながらひっかく
さっきのやさしさ
あれは何だったのか
教えて下さい

 この詩における、語り手の行動に似た行為は、私も経験がある。—いや、いつどこで動物に対して裏切りを働いたか、はっきり言えるほど、明確な記憶があるわけではない。しかし、動物に対する気まぐれな愛情というのは、自分のこととして理解できる。この詩は、そうした、誰もが一度は経験したことのある行動の中に、「裏切り」の要素を見出している。思い切って言えば、この詩の作者は、日常の風景の中に潜む暴力の匂いのようなものを嗅ぎ取っていると言って良いだろう。
 もちろん、私達が動物に対して行う小さな「裏切り」は、常識の世界において犯罪行為として数えられるようなものではない。作中で作者が描いている情景は、ごく当たり前の、人間と動物との戯れである。しかし、その情景を、改めて詩人の言葉によって辿ってみると、語り手の行動には、常識の世界の中で暴力として数え上げられる行為との共通項が存在することが分かる。そのことに対する作者の「気づき」が、この作品を支えている。
 具体的には、

  拒絶された猫が
  しばらくないて泣きやまない
  ガリガリ爪をたてて
  なきながらひっかく

 という箇所。この、「猫が家に入りたくて戸をひっかく」という情景は、極めて日常性の強い、何の変哲もない出来事である。しかし、猫が「鳴く」というのを、人間が涙を流す時の「泣く」とも取れるように平仮名で表現することによって、猫の「感情」がより私達に伝わりやすくなっている。「戸を爪でひっかく」というのも、猫がそのように悲しみの極みにあるために為す感情表現であるように思えてくる。このように、日常の風景も、詩人が言葉でなぞることによって、新しい情景として我々の前に立ち現れるのである。
 ところで、私はこの詩を心から面白いと思えた、と述べた。それというのも、詩人の手によって風景の「意味」は更新されるが、その更新される前の世界観に強くリアリティーを感じることができたからだろう。要するに、動物に対する「裏切り」という題材に、共感できたからだ。仮に、生まれてから一度も動物と接したことがない人がこの詩を読んでも、その面白さは分からないだろう。このように、世界の「意味」を書き換えるような効用を持つ詩は、その書き換えられる前の世界観に、読者が共感できなければ、成り立たないのである。

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