谷川俊太郎「ゆうぐれ」を読む

谷川俊太郎「ゆうぐれ」について

ゆうがた うちへかえると
とぐちで おやじがしんでいた
めずらしいこともあるものだ とおもって
おやじをまたいで なかへはいると
だいどころで おふくろがしんでいた
ガスレンジのひが つけっぱなしだったから
ひをけして シチューのあじみをした
 
このちょうしでは
あにきもしんでいるに ちがいない
あんのじょう ふろばであにきはしんでいた
となりのこどもが うそなきをしている
そばやのバイクの ブレーキがきしむ
いつもとかわらぬ ゆうぐれである
あしたが なんのやくにもたたぬような

 この詩を読んだ際に、違和感を感じるのは、語り手の家族が(おそらく)全員死んでいるのに、語り手は「いつもとかわらぬ ゆうぐれである」などと嘯いているところである。
 自分の家族が死んでいるのに、泣いて悲しむどころか、「めずらしいこともあるものだ」などと悠長なことを考えて、さらに、「いつもとかわらぬ ゆうぐれである」などという感想を抱く。この語り手は、人間の心を持たないサイコパスなのだろうか?
 確かに、この語り手は、普通の人間とは、物の感じ方がずいぶん違っている。しかし、それは、どうやら、簡単に「頭がおかしい」とは片付けられないようである。
 なぜなら、「いつもとかわらぬ ゆうぐれである」という一行の後に、このような一行があるからだ。

  あしたが なんのやくにもたたぬような

 この箇所から、語り手が、単なるサイコパスではない、ということが分かる。それは、もし、「明日が何かの役に立つ」ような日が訪れた時、この語り手は初めて驚きという感情を露わにするだろうと予想されるからだ。つまり、ただ感情がないのではなくて、感情は人並みにあるが、それを動かすきっかけが、他の人とは異なっている、ということなのである。
 また、父親が死んでいるのを見て、彼は全く感情を動かさないわけではない。一応、「めずらしいこともあるものだ」という反応を見せている。しかし、これは、我々が、例えば遠く離れた親戚が訪ねてきた時に見せるような反応であると言える。
 これらのことから、以下のようなことが考えられる。すなわち、この詩の語り手は、世界の本質に関わる出来事にしか、心を動かさないのである。「あしたが なんのやくにもたたぬ」という語り手の考えは、明日食べるもののために、あくせく働いている我々の神経を逆なでするかもしれない。しかし、そういう我々も、口では芸術だの思想だのと、高尚なことを言っているだろう。我々は、そのように、世界について考えたりしているくせに、実際に、自分の身の回りに不幸があれば、それを嘆き悲しんだりする。つまり、我々には矛盾があるのである。
 一方、この語り手には、矛盾がない。ただ高尚なことを考えているだけではなく、低俗なことに動じない。もちろん、この語り手も、ガスレンジの火を消したり、生活上の行動はする。しかし、そのことにいちいち心を大きくは動かさないのである。
 このように、この作品は、信条と物の感じ方が一致している語り手の姿を通して、我々の普段の矛盾した姿を浮き彫りにする、という手法を取っている詩であると言える。

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