山崎るり子「夕暮れ」を読む

風のようなもの
鳥のようなもの
犬のようなもの
が通りすぎる
今通っていったのは
だれだろう

花のようなもの
川のようなもの
歌のようなもの
が流れていく
このごろは川と歌の
区別もつかなくなってしまった

ようなもの 妖なもの
街には ようなものがいっぱいだ

早く家にお帰り
暗くなるとようなものになってしまうよ
という街角に立つおばあさんの口の中
暗くて深い

走って走って家に帰る
手を濡らし
冷蔵庫から肉のようなもの
を取り出して
夕食の準備にとりかかる

 この作品は、一篇のホラー小説のような味わいを持った詩である。ただし、通常のホラー作品とは少し異なる点を持つ。
 普通、ホラー小説においては、物語は平凡な日常を送っていた主人公(ここでは語り手とも言い換えられる)が怪異に遭遇する、という形を取る。しかし、この詩においては、そもそもの最初から語り手は恐ろしい状況に陥っており、その状態のまま、語り手の身には何も変化が起こらない。だが、ホラー作品というものは、何者かが怪異に出遭うという場面が描かれなければ、本来成立しないはずである。なぜなら、読者を安心から恐怖に突き落とすことこそが、ホラーの醍醐味なのだから。ではなぜ、語り手が怪異に出遭う場面が存在しないこの詩について、ホラー作品の形式を取っている、と言うことができるのか。——それは、確かに語り手の身には変化は起きないけれども、読者自身は、この詩を読むことを通して、安心している状態から、恐怖の絶頂にある状態へと変化するからである。つまり、言ってみれば、この作品において、恐怖を体験する人物とは語り手ではなく読者自身なのである。
 このように、この作品の主旨を説明した上で、これらの主張が具体的に何を指しているのかについて、以下に説明したい。
 作中の第一連から第三連までの内容や、「夕暮れ」というタイトルから、この詩は一見、夕暮れの魔力のようなもの(夕暮れ時は「逢魔が時」と呼ばれることもある)を描いた作品であると思わせる。作中に登場する「ようなもの」という表現は、第三連にある通り、ただ単に「妖なもの」を表しているのだと思わせている。つまりは「夕暮れになると妖しげな力が働き、物の区別がつかなくなる」という現象が、この詩の主題であると、読者は考えてしまうのだ。その「逢魔が時」の魔力の延長上に、「暗くなるとようなものになってしまうよ」という老婆の忠告もある。つまり、この「夕暮れの魔力」というホラーを推し進めていったとき、その極まりにあるのは、自分も「妖なもの」になってしまうという恐怖なのである。語り手が走って家に帰ることで、この人物が作中に仕掛けられた全ての怪異から逃れることができたように、我々読者は思う。
 しかし、これは実は、作者によるミスリードなのである。第五連には「冷蔵庫から肉のようなもの/を取り出して/夕食の準備にとりかかる」とある。これまでの考え方でいけば、街から帰ってきた語り手は、もう「逢魔が時」の魔力から解放されているはずである。なのになぜ、まだ「肉」が「肉のようなもの」に見えてしまうのか。
 実は、この人物を襲っていたのは、夕暮れの魔力などではなく、もっと別の怪異だったのである。それは、物の実在が揺らいでしまう、哲学上の疑いという名の怪異である。この人物は、この疑念に囚われて、形ある物が全て「のようなもの」に見えてしまう、そうした現象に襲われているのである。このように、あらゆる物を本当にその物なのか疑うという、この問題提起は、この作品の文学的な主題でもある。
 さて、この詩を読むことを通して読者が体験するのは、語り手は「逢魔が時」の魔力に襲われているのだという読みから、実はそうではなく、この人物は物の存在に対する哲学的な疑念に囚われているのだという読みへの移行である。この、哲学的な疑惑にどうしようもなく陥ってしまうという症状は、実はそもそもの初めから語り手を絶えず襲っていた、怪異とも言える現象だったのである。このように、語り手が、逢魔が時の魔力から逃れて家に帰ってきて、助かったと読者は一旦は安心する。しかし、語り手を襲っていたのは実は異なる種類の怪異で、それは常にこの人物を襲い続けていたのだ、そう気づくことで、読者は恐怖を味わう。このような作品の仕組みこそが、この詩のホラー要素なのである。つまり、読みの転換により、実は語り手は助かってはいなかったのだと気づく瞬間が、読者にとっての恐怖体験なのである。
 そう考えると、作者は我々読者をミスリードしながらも、どんでん返しのための伏線を、ちゃんと作中に仕掛けている。第二連の「このごろは川と歌の/区別もつかなくなってしまった」の「このごろは」という表現から、語り手に、物が「ようなもの」に感じられてしまうという現象が起きるのは、もともと夕暮れ時に限らなかったのだという事実が読み取れる。このことは、この作品が主題として扱おうとしているものが、夕暮れの魔力などではなく、もっと別の何か——それを私は、哲学的な問題提起であると考える——であることを示している。
 さて最後に、老婆の口の中が「暗くて深い」という表現が、何を意味しているのかについて考えたい。「暗くなるとようなものになってしまうよ」という忠告は(語り手が無事に家に帰れたため)、結局不発に終わった。しかし、作中では違う種類の怪異が作動していて、それによって読者がこの後恐怖を味わうことになるということの「予告」として、このような不吉な表現をこの箇所に置いたのではないか−、私はそう考える。

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