石垣りん「定年」を読む
定年 石垣りん
ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」
人間は黙っていた。
人間には人間のことばしかなかったから。
会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。
人間はつぶやいた。
「そんなこといって!
もう四十年も働いてきたんですよ」
人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。
会社が次にいうことばを知っていたから。
「あきらめるしかないな」
人間はボソボソつぶやいた。
たしかに
はいった時から
相手は会社、だった。
人間なんていやしなかった。
この詩の作者が「会社のことば」や「人間のことば」という比喩に仮託して語っているのは、会社の側の都合によって、生活人の尊厳は押しつぶされてしまうのだ、という内容であると思われる。しかし、私は最初、作者のこの主張に疑問を覚えた。なぜなら、この詩が扱っている題材は、タイトルにもあるように、「定年」である。これがもし、リストラなどを題材にしているのならば、私は「一生懸命に働いていた人をクビにするなんて、確かにひどい会社だな」と感じ、内容に賛同することができただろう。それなのに、この詩のテーマは、あくまでも「定年」である。「定年」とは、見方を変えれば、人間と会社の間の、何歳になったら会社を辞めるという約束ごとであるとも考えられる。だから、「定年」を迎えた人を辞めさせるのは、ある意味で、物の道理に適っていると言えるのではないか。私はそう思った。
しかし、このような私の感想は、まさにこの詩の中の「会社のことば」に該当してしまうのだろう。「『定年』とは人と会社の間の約束事であり、その約束を承知で、あなたは入社したのでしょう。」——おそらくこのような「ことば」が、
人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。
会社が次にいうことばを知っていたから。
という第五連の中の、「会社が次にいうことば」として想定されていると考えられる。そして、この会社の側の理屈、つまり先程の私の感想は、世の中に一般的に流布している考えであることが指摘できる。
しかし、作者は、この考えに、あくまでも反抗している。その反発の根拠として挙げられるのは、このような世の中の考え(「会社のことば」)は、ある事柄を見落としている、という事実である。
その「ある事柄」とは、家庭を支える人物にのしかかる、生活の重みである。作中で定年を迎えた人物がつぶやく
「そんなこといって!
もう四十年も働いてきたんですよ」
という言葉(「人間のことば」)は、苦しみに満ちている。「定年なのだから仕方ないだろう」と人が考える時、その人は、そこに生活人の苦しみが存在していることを忘れてしまっている。その存在を世の中に強く提唱するのが、この詩なのである。
また、この詩は、「定年」を題材にすることによって、広く世の中の会社一般に、疑問を投げ掛けるものになっている。これがもし、「リストラ」などを題材として扱っていたら、どの会社員もいつかは必ず迎える不幸であるとは言えない。したがって、この詩の題材は、「定年」がやはり相応しいと言える。
さらに、この詩が、「定年」という題材を切り口にして、会社という機構の在り方そのものに疑問を呈しているという事実も、見落としてはならない。
たしかに
はいった時から
相手は会社、だった。
人間なんていやしなかった。
という第七連では、「定年」という切り口から浮上してきた「会社の側の道理」の問題点が、会社の在り方全体に布衍できることが示されている。
ここまで見てきたように、この「定年」という詩は、世の中で「物の道理」として通っている考え方の裏で押しつぶされる、人間の尊厳の存在を指摘する内容となっている。会社というシステムそのものに隠された問題点を、「会社のことば」と「人間のことば」という比喩で掬い取った、見事な作品であると言えるだろう。