山崎るり子「風景」を読む

せっかくの大型バスが
あんなに小さくなってしまった
除草剤がだんだら模様にした道端を
右と左と別れのテープみたいに引っぱって
奥へ奥へ
春の風景の中をバスは
奥へ奥へ
もう見送る子供の
親指の爪くらいだ
バスに乗って行ったおばあさんは
どうなっただろう
おばあさんの手下げ袋は
袋の中の家族写真は
どうなっただろう

あ 飛行機
飛行機は小さくてもいい
空高く 行くのだもの

 この詩が語っているのは、遠く離れた家族の元へやってきて、また一人で自分の住む地へ大型バスで帰っていく「おばあさん」の話である。
 一読すると、末尾の「あ/飛行機/飛行機は小さくてもいい/空高く/行くのだもの」が謎めいた記述として感じられる。が、これは、この詩の中で描き出される“風景”をイメージしてみれば、容易に理解できる。その際、「見送る子供」の視点の位置をハッキリと意識することが重要だ。作中にはこうある。

 除草剤がだんだら模様にした道端を
 右と左と別れのテープみたいに引っぱって
 奥へ奥へ

 これは、地平線がまさしく一本の線として意識されるほど遠くにバスがあるというよりも、その線がまだ幅を持った「テープ」の太さに見えるくらいの距離感の所をバスが走っていることを示している。そして、道がだんだら模様であるため、その「テープ」は縞模様となり、まさに「別れのテープ」の様相を呈している。このように、一本道の動かない風景の中を、バスはだんだん小さくなっていくのである。それに引き替え、「飛行機」は最初から遠くを飛んでいる、つまり初めから遠景として「見送る子供」の目に映る。だから「小さくても」、問題にはされないのである。
 一方、バスはどんどん小さくなっていく。そのバスに乗っていた「おばあさん」や、その荷物はどうなってしまうのだろうという発想が、この詩の眼目である。
 このように考えると、この詩は遠近感の不思議さを謳ったものであることになる。しかし、この詩は実は、『おばあさん』という名の詩集に掲載されたものであり、そこには文字通り「おばあさん」についての詩が多く登場する。となれば、この詩も、「おばあさん」の存在に注目して読み解かれるべきである。だが、今のままでは、この詩はただの遠近感にまつわる詩になってしまう。一体どう考えれば良いのだろうか。
 その遠近感についてよく分析してみよう。大きな物体が自分の近くから遠くへ移動することによって、それが小さく見えるようになってしまうというのは、確かに不思議でもある。しかし、それは実は見送る側にとっての「不思議」であり、その移動する物体に密着して考えれば、不思議でもなんでもない。移動している側からすれば、自分自身は小さくはならないからである。
 しかし、作者はそのなんでもない遠近感について、不思議だと考える姿勢を取っている。なぜ、そのような態度を取りうるのだろうか。その答えは、過ぎ去っていく者が「おばあさん」であるから、ということになる。遠くへ去っていく老婆の視点で語れば、遠近感は不思議ではなくなる。しかし、作者は、その「おばあさん」の視点というものが存在しないと考えているのだ。
 ここで、この『おばあさん』という詩集について批評した、詩人の井坂洋子の文章を挙げたい。

  山崎るり子は第一詩集でずいぶん思いきったタイトルをつけた。詩集を最後まで読んで、これでしかないタイトルだと納得するけれども、おばあさんというのは一体誰を指しているのか。多くの年寄りに共通の属性を兼ね備えながら、どこの誰とも特定できない。『おばあさん』はたとえ八十八才の人が読んでも、自分のことのようには読めないだろう。
 ひとつには、人はめいめい名前をもっていて、個人として生きるほかなく、またそこに誇りもある。自分をおばあさんなどと認識しているわけではない。でも、そういう人でも、遠くを行く年寄りを「あのおばあさん、派手ね」とつぶやいたりする。つまりおばあさんとは、遠目の存在なのである。(「みんないっしょに」、思潮社『現代詩文庫 山崎るり子詩集』所収)

 この井坂の文章は、特に「風景」という詩に限定して言及しているわけではないけれども、ここに書かれていることは、「風景」の「おばあさん」にも当てはまる。つまり、この「風景」の「おばあさん」は、誰から見ても他者である、言い換えれば、「絶対的な他者」なのである。それではその「絶対的な他者」が、例えば「若者」という設定でも交換可能かと言えば、そうではない。我々の住む現実世界での「おばあさん」のニュアンス(井坂の言う「遠目の存在」)が、この詩の中の「おばあさん」の、「絶対的な他者」としての地位を確立させている。つまり、この「おばあさん」という語によって、作中世界の中に現実世界は反映されているのであり、そこにこの詩の文学性もある。それは具体的には、井坂の指摘した通り、「遠目の存在」としての「おばあさん」像の発見というものだ。
 以上のように、この作品の中で、「おばあさん」は一種の詩的なフィクションとして機能しているのである。

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