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孤絶した場所にいる存在 —夏目漱石の小説「坊つちやん」について—

 今回は、夏目漱石の小説「坊つちやん」について見ていきます。
 この小説は、一人称が「おれ」である人物の語りで展開されます。この「おれ」については、精神のありようが、ほんの少しおかしい、そんな人物であると言えます。では、一体、どこがおかしいのでしょうか。それについては、登場人物である清の言葉を借りたいと思います。清は、「おれ」の性格について、「真っ直」(まっすぐ)な気性である、と評しています。その「真っ直」というのは、「おれ」自身の言葉を用いるならば、「単純」あるいは「真率」(しんそつ)などとも言い換えられます。ともあれ、「おれ」の特徴は、「真っ直」なところにあるらしいのです。しかし、それは、普通の「真っ直」さではありません。徹底的な「真っ直」さとでもいうべきものなのです。
 そのことは、「おれ」を、登場人物の一人である「山嵐」と比較してみると分かります。「山嵐」も、曲がったことの嫌いな、ある意味「真っ直」な人物であると言えます。しかし、彼の「真っ直」さは、徹底的とは言えません。不徹底なのです。なぜなら、「山嵐」の場合は、「真っ直」であるということを、あらゆる他の事柄とバランスを取りながら実現しているからです。例えば、「おれ」が、赴任した四国の中学校で、教頭の「赤シャツ」という人物と対立してしまう、というエピソードにまつわる場面の、

  帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうというと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕らを誘い出して喧嘩のなかへ、捲き込んだのは策だぜと教えてくれた。

 という記述から、「山嵐」についてのそのような事実が窺えます。この場面で、「山嵐」は、「おれ」に対して、「赤シャツ」の動きが怪しいと教えています。「山嵐」は、「赤シャツ」の策略に気づくだけの知恵を持っているのです。このことから、「山嵐」は、現実的かつ、バランスの良い人物であると言えます。彼は、「真っ直」ではあるけれども、それは、現実とすり合わせられた「真っ直」さなのです。このように、「山嵐」の「真っ直」さは、私たちの日常の延長上にあると言えます。ですが、「おれ」の「真っ直」さというものは、私たちの日常の延長上にはありません。あくまで、「おれ」の精神のありようは、私たちとはややズレているのです。「おれ」は、「真っ直」であるということだけを追究していて、他の事柄を全て切り捨てているので、真の意味で「真っ直」な人物なのです。「おれ」が切り捨てている他の要素とは、例えば、言葉にまつわるコード(約束事)です。

  母が病気で死ぬ二、三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大(おおい)に痛かった。母が大層怒って、御前のようなものの顔は見たくないというから、親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだという報知(しらせ)が来た。

 ここで、「母」の「御前のようなものの顔は見たくない」という言葉は、「素行を改めろ」という意味であり、本当に「顔を見たくない」という意味ではないと解するのが普通です。しかし、「おれ」にはそのコードが通じませんでした。「おれ」は「真っ直」すぎるあまり、言葉の意味をそのまま捉えてしまっています。このような失敗は、「山嵐」は絶対にしないし、これは「おれ」の異常な性質をよく現していると言えると思います。
 ところで、作中で、「赤シャツ」と対立するのは、「おれ」ばかりではありません。「山嵐」も「赤シャツ」と対立しています。研究者の平岡敏夫は、その著書『「坊つちやん」の世界』(はなわ新書)で、「山嵐」こそ、この作品の主人公である、とする解釈を紹介しています。たしかに、この小説を、「赤シャツ」という<悪>との対峙を中心的に描いた作品、と考えるならば、主人公は、「山嵐」であると言えます。しかし、私たちはそう考える際、「赤シャツ」という<悪>と、「山嵐」や「おれ」という<善>の対立構造に気を取られて、より重要な対比構造を忘れてしまっています。それは、「おれ」対「全ての人間」という対比構造です。「赤シャツ」と「おれ」の対立は、<悪>対<善>なのではありません。あくまで、「普通の人間」対「異質な人間」という対立構造の中に、「赤シャツ」と「おれ」は配置されています。このことは、他の登場人物にもあてはまり、「山嵐」と「おれ」の間にも、実は隔絶はあり、清と「おれ」の間にも、本当は隔てがあるのです。そして、もちろん、読者の私たちと「おれ」の間にも、それはあります。
 ところで、ここからは、清についても触れたいと思います。「清は<おれ>の理解者である」と考える人は多いと思われますが、ここでは、実は清は「おれ」の真の理解者ではないのではないか、という問題提起をしたいと思います。清は「おれ」のことを慈しんでいますが、その「おれ」の異質さを、もちろん共有してはいません。その上で、彼女は、「おれ」の異質さを、真に理解し、受け止めているわけでもないことを指摘したいと思います。なぜ、清が「おれ」の異質さを理解していないと言えるかというと、そもそも作品の登場人物の全員が、「おれ」の本質を捉えていないからです。
 「おれ」の異質さの本質を掴むためには、彼の語り、言い換えれば心内語を把握する必要があります。しかし、作品の登場人物は、当然ながら、彼の語りを読むことができません。彼の語り、つまり心内語を読み取ることができるのは、私たち読者だけなのです。そのような私たちは、「おれ」の異常さの本質に何があるのか気づくことができますが、登場人物たちは、それに気づくことはないのです。
 「おれ」の本質は、徹底的に「真っ直」というものですが、それは、病的に「頭がおかしい」という性質のものではありません。ほんの少し、精神のありようがズレている、というものなのです。そのように、「おれ」と「普通の人」とのズレは、明確に現れてはいないため、登場人物たちは、その異常さに気づきません。彼らは、「おれ」の「真っ直」あるいは「単純」という性質に気づくことはできます。しかし、そこに、異常さを見出す登場人物は、一人もいません。言い換えれば、登場人物の中に、自分たちの日常の延長上に、「おれ」はいないのだ、と気づく人は一人もいません。清も、「真っ直」という「おれ」の性質を愛しはしましたが、その本質に気づくことはありません。
 つまり、「おれ」の特異な性質がその真価を発揮するのには、「おれ」が作品の語り手になること、つまり心の内を語るという条件がついているのです。ここで、語り手としての「おれ」を、他の登場人物との関わりの中に存在する「おれ」、言い換えれば、行動者としての「おれ」と区別してみたいと思います。そうすると、「おれ」がその異質さを真に発揮するのは、行動者として他の人物と関わっている時ではなく、語り手として語っている時である、と言うことができます。
 では、具体的に、「おれ」のどのような語りから、彼の異常さが感じられるのでしょうか。

  こんな土百姓とは生れからして違うんだ。ただ智慧のない所が惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外(ほか)に勝つものがあるか、考えて見ろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここにいる。

 これは、夜中に中学校の生徒からいたずらを受けた「おれ」が、生徒を捕まえて謝らせようと決意する場面です。結局、翌朝には生徒を捕まえることができたため、「おれ」が何日も中学校の宿直部屋の廊下に座っていることはありませんでした。しかし、仮に生徒を捕まえることができなければ、「今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここにいる」という行動を、彼は実行したと考えられます。ここに、「おれ」の異常さが見受けられます。この異常さは、彼が語り手としてこの事件を語ることで、初めて現れてくるものです。他の登場人物は、彼がこのような尋常ではない決意をしているとは知らないからです。そのため、「おれ」が語り手として物語を語る、ということにより、初めて、異質な「おれ」の姿は、像を結ぶのです。
 さて、この小説を読む際には、「おれ」対「全ての人間」という、隠れた対比構造があることを意識することが重要なのでした。全ての人間から孤絶したところに、「おれ」という存在はいます。この小説が、もし社会批判の要素を含んでいるとしたら、それは、「赤シャツ」のような<悪>に対する批判ではなくて、清や「山嵐」をも含む、「全ての人間」に対する批判なのです。

 

 

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