山崎るり子「おばあさんのタンス」を読む
おばあさんはタンスに隠す
びわの実 一つ
下着をかぶせて
おまじないする
やんちゃな小鳥が
つつかぬように
引き出し閉めると
ほっとして
おばあさんはとろとろ眠る
眠りの中でおばあさんは
びわの木見上げて歌っていた
昔のように歌っていた
びわの実 びわの実
この手の中で
暖まっておいき
ふところの中で
眠っておいき
びわの実 びわの実
冷たい びわの実
目をさました時
おばあさんは忘れている
タンスに隠したびわの実のこと
もう夕方で 西の陽が
タンスも部屋もおばあさんも
びわの実色に 染めて行く
タンスも部屋もおばあさんも
びわの実色に
暮れて行く
この詩を読んでまず目につくのは、びわの実をタンスに隠した「おばあさん」自身もまた、「びわの実色に/暮れて行く」のである、という記述である。しかし、この詩を読んだ後に注目すべきポイントは、実はもう一点ある。
それは、「おばあさん」が夢の中で歌う、びわの実にまつわる歌の中の、「ふところの中で/眠っておいき」という箇所である。この、びわの実が眠るという内容の歌と、「おばあさん」が眠るという描写が重なっていることに、私は注目したい。
つまり、実はここでは、「びわの実」は「おばあさん」のことを暗喩的に表しているのである。びわの実をタンスにしまった「おばあさん」自身がびわの実に喩えられていることから、ここには何らかの入れ子構造が存在することが窺える。それが具体的に何なのか、「おばあさん」がタンスに隠したびわの実のことをすっかり忘れてしまう、という描写に焦点を当てて考えてみた。びわの実が「おばあさん」の比喩として登場しているとすれば、「おばあさん」自身も、やがてタンスにしまわれ、そして忘れられるべき存在として描かれていると言える。
そう考えると、確かに、「おばあさん」は老婆であるため、死が間近に迫っていると言えよう。彼女も、やがて人々の記憶からは消えてしまうのである。最終行の「暮れて行く」はそのことを暗示している。
ここで、先ほど指摘した「入れ子構造」の正体が明らかになる。つまり、びわの実をタンスにしまった「おばあさん」自身も、びわの実のように、いつか記憶の“タンス”にしまわれ、人の記憶から消えてしまう。その、「おばあさん」のことを忘れ去ってしまった人も、また「おばあさん」になり、“びわの実”として誰かのタンスの中にしまわれるだろう。
このように、山崎るり子の「おばあさんのタンス」という詩は、人の記憶というものが、実は入れ子構造であることを指摘する作品なのである。