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石垣りん「公共」について  —社会の理想の姿がここにある—

  公共 石垣りん

  タダでゆける
  ひとりになれる
  ノゾミが果たされる、

  トナリの人間に
  負担をかけることはない
  トナリの人間から
  要求されることはない
  私の主張は閉めた一枚のドア。

  職場と
  家庭と
  どちらもが
  与えることと
  奪うことをする、
  そういうヤマとヤマの間にはさまった
  谷間のような
  オアシスのような
  広場のような
  最上のような
  最低のような
  場所。

  つとめの帰り
  喫茶店で一杯のコーヒーを飲み終えると
  その足でごく自然にゆく
  とある新築駅の
  比較的清潔な手洗所
  持ち物のすべてを棚に上げ
  私はいのちのあたたかさをむき出しにする。

  三十年働いて
  いつからかそこに安楽をみつけた。


  この作品は、なんとトイレについての詩である。語り手が、勤めから帰る途中に立ち寄る「とある新築駅の/比較的清潔な手洗所」に、いつからか安楽を見出すようになったという話だ。しかし、これはただトイレに入ってホッとする、という内容の詩ではない。語り手が、駅のトイレに安楽を見つけたのには、ある理由が存在している。
 その理由とは、一つには、語り手は職場と家庭を行き来しているが、そのどちらもが「与えることと/奪うことをする」場所であり、駅のトイレはそうではないからである。
 ただし、ここで注意しなければいけないのは、これを「職場と家庭が語り手をただ責め苛む場所であるから、駅のトイレにやっと安楽を見出している」という内容に矮小化してはいけないということだ。本文をよく読むと、職場も家も、ただ語り手から「奪う」だけではなくて、「与える」こともしていることに気付くだろう。それならば、語り手はなぜ、ただ「奪う」だけではなく「与え(て)」もくれる、職場と家を疎んじているのか。
 その理由については、第一連と第二連を見るとよく分かる。

  タダでゆける
  ひとりになれる
  ノゾミが果たされる、

  トナリの人間に
  負担をかけることはない
  トナリの人間から
  要求されることはない
  私の主張は閉めた一枚のドア。

  ここで、語り手は、自分が駅のトイレに安楽を感じる理由を述べている。特に第二連に注目すると、「トナリの人間に/負担をかけることはない/トナリの人間から/要求されることはない/私の主張は閉めた一枚のドア。」とある。「トナリ」が片仮名で表記されていることから、この「トナリ」はただ文字通りの「隣」という意味だけを含んでいるわけではないと分かる。もちろん、直接的に表しているのは、自分が入っているトイレの個室の隣の部屋を指しているのだが、これは同時に、「隣人」、つまり「他者」という意味をも含んでいる。他者に「負担をかけることはな(く)」、同様に他者から「要求されることはない」、それが駅のトイレなのである。
 ここで、この作品のタイトルに注目したい。「公共」とある。「公共」とは、「おおやけ」のことであり、言い換えれば「社会一般」のことを指す。このタイトルは、作品の内容とどのように関係しているのだろうか。
 それについては、私は次のように考える。すなわち、語り手は、社会というものの理想の在り方を、この駅のトイレに見出しているのではないだろうか。その証拠に、「トナリ」が「他者」という意味を含んでいたことが挙げられる。他者に「負担をかけることはな(く)」、同様に他者から「要求されることはない」、そんな在り方を、語り手は、この社会の理想として掲げているのではないだろうか。
 そう考えると、第一連、第二連で挙げられていた、駅のトイレの利点が、語り手が夢見る社会の姿であるように読めてくる。「タダでゆける/ひとりになれる/ノゾミが果たされる」とは、ただ単に、使う人にとって嬉しい利点であるだけではなくて、駅のトイレに理想の福祉施設としての側面が見出せることを表している(ちなみに、「ノゾミが果たされる」とは、具体的には用を足せるという意味である)。その上、トイレというものは、「閉めた一枚のドア」によって、「入ってくるな」という意志を表すこともできる。意見の主張さえできるという点で、やはり駅のトイレは、社会の理想の姿たり得るのである。
 職場と家庭だけではなく、世の中のほとんどの場所で、人間は、他者から「与えること」と「奪うこと」をされる。何の「負担」もかけ合うことなく、また何の「要求」もされない場所は、やはりトイレだけなのである。
 このように、語り手は、駅のトイレに、社会というもののあるべき姿を見出している。この斬新な見方に、作者の詩的な発想が顕れていると言えよう。
 なお、第三連で「最低のような」とあるのは、そうは言ってもやはりトイレはトイレである、と現実に帰る視点も語り手が持ち合わせていることを表している。駅のトイレなどに安楽を見出す自分を自嘲しているのである。
 また、職場のトイレや自宅のトイレでは、職場や家庭に属しているため、語り手にとって安楽が得られない。この作品の題材となるのは、やはり駅のトイレでなくてはならないのである。


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