自分語り 今日、はじめてジャズ喫茶にいくまで。 序、または当時田舎ではYMOを聞くか暴走するしか娯楽はなかったはずだ。
1990年ころヴィンテージ・コンピュータ狂だった私は、映画やテレビの編集の仕事をしながら結局は古いパソコンを入手出来るという理由で当時最大手だった中古流通の仕事をすることになる。趣味も仕事も生まれる前のパソコンの収集になってしまった。しかしまだ若かったのでどこかで恥ずかしくない趣味もほしいと考えていた。当時すでにオタクという言葉は一般的で親からもオタクだと言われ自分でもその通りだと思っていた。何かの趣味に精通していてプロであるというより、性格が暗くモテないような意味で。
そんなタイミングで職場の同僚の影響で音楽が趣味となった。素直に当時のクラブミュージックが好きになり、レコードやCDを限界まで買い漁り終業後にクラブに行き朝にまたそのまま出社し、同時に周辺のカルチャーからも影響を受け本や映画、服とテンプレ通りに染みた。これが第1次音楽ブームで、4、5年で3000枚ほどクラブミュージック(ディープハウス・ダウンテンポ・テクノ・ポストロック)に類するようなディスクを買い、家では自称DJのような部屋。
それが、結婚を境に小遣いでは欲望を満たすだけの購入はできなくなり、ショップに行く時間も取りづらくなってしまった。
さらに10年ほど時間が経ち、自分で会社を起こすべく独立、その時に車移動中に聴くものがほしいと再度ディスクを買うようになったが、年もくい落ち着きのある買い方だったと思う。会社は約100人ほどになった現在、毎日10万、20万アナログ盤だろうが、CDだろうが、オーディオを買っても気持ちは痛いが、生活が成立するようになった。20年のブランクがバネとなり破裂した。
元々音楽は常に興味のないものだった。小学校高学年になっても好きな歌手がいなかった。狂っていたファミコンの音楽が一番好きで、その影響かYMOだけは好きになり全てのCDを集めた。パソコン通信で知り合ったマニアから貴重なブートやマスターテープのダビング、エアチェックなどの収集、YMOが1ページでも記事になっていればと、古本屋を巡り宝島やサウンドール、音楽雑誌などを買い集め、ポスターやパンフなども2000年頃の若造にしては、カルトQで優勝できるだろ。という程自信があった。だから、そのまま電気グルーヴにはじまり、The Orb、そうくるとブライアンイーノ、UKニューウエーブを早足で駆け抜けWARPレーベルのテクノ。といったわかりやすいYMOチルドレンだ。当時知り合ったYMOマニアの輪のようなものにも一番の若造として入れてもらったが、彼らはあくまで原体験者であり矢野顕子のソロや、細野晴臣のラジオがどうだとか少し懐古的だった。今でこそそれらはどれも良いと思えるが、私には当時は少し退屈でYMOで受けた衝撃をその当時最新のミュージシャンから同じ衝撃を受けるアッパーバージョンがあるのではないかと真剣に探していた。
テクノからハウス、ヒップホップなどになると、ライナーにはジャズの何のフレーズのサンプリングがあるだとか、「ジャジー」という言葉がいやでも目に入る。正統派ジャズファンからすると、軽いの一言だろうが、私の経路からすればそれは今のジャズにハマるまでの大切な下地だった。なぜなら当初ジャズは大嫌いだった。シンプルに言えば、難しく、年寄り臭く、黒人が多いからだ。私の経験値ではそうなってしまった。いくらいい曲だと言われ聞いても分からないから退屈だ。しかし徐々にジャジーという言葉の曲で穴は埋められ、いつしかハービーハンコックのヘッドハンターズを聴き、タイミングよくブルーノート3枚買うと1枚無料のようなキャンペーンとぶつかる。それは1枚のCDが1000円だったか、驚異的に安く、キャンペーンのチラシには発売予定のCDの寸評なども載っていた。最初に買ったのが運が良かった、アートブレイキーのバードランドの夜Vol1だ。家で流して聴いたところチェニジアの夜には汗が出た。中盤奏者の誰かが空き缶を叩くような音が入るところだ。(ググればわかるんでしょうが)恐らくこの安い復刻CDは全部購入したと思う。それから、ブルーノートの歴史や評論家のJAZZ本を読むことになるが数年でJAZZにそれほど魅力を感じなくなった、飽きたのだ。そして現在再度復帰し、本格的に原盤収集や、書籍を読み漁るようになり、”噂の”ジャズ喫茶というものに行くことになるのだが。