非実在人物に対する反出生主義のようなもの(または、不要なシンパシーについての考察)

『大豆田とわ子と3人の元夫』見ていて、非常に厳しい気持ちになった。これはこの作品そのものが悪いのではなく、ただの不要なシンパシーによる感情移入にすぎない。けれど、この世には、あまりにも似通った構造が、まるで当たり前のように存在していて、そのことが時折許せなくなるのだ。

綿来かごめの死。それは私のトラウマを刺激するのに十分だった。

犯罪的、反社会的にしか生きられない、それは一般の現実を生きている人にとっては希望のような存在だ。しかし、彼ら彼女らは決して最後まで生を全うすることはない。いつか死ぬために生まれて来たキャラクターにすぎないのだから。反社会的な生き方を示した後、無惨にも「主人公が全うな生き方を取り戻すために死ぬ」。あんな生命のあり方はもう、たくさんだった。

あなたたち一般健常者はさも当然のように反社会的人物を舞台装置として消費するけれども、その度に反社会的存在は一般健常者に殺される夢を見ているんだぞ。せめてあなたたち自身の手で殺してくれれば溜飲を下げようものの、それすらもしない臆病で私たちを見下しているあなたたちは非常にあくどい存在だと、そう思えてしまう。

せめて消費するならその罪を背負ってくれ。

さもなくば最初から産まないでくれ。私たちは消費されるからだとして、あなた達の元に生まれて来たわけじゃないのだから。

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