二編の詩に思う①
「わたしを束ねないで」
大人になってからも思い出す
国語の教科書に載っていた詩がある。
一つは 谷川俊太郎『朝のリレー』
もう一つは 新川和江『わたしを束ねないで』
国語は嫌いではなかったけれど
特に好きだったわけでもなく
読書が好きだったわけでもない。
それでも心に残っていたこの詩に
今さらながらいろいろと思う。
~わたしを束ねないで~
思春期の私に、薄っすらわかるような気がするタイトル。
しかし、読んでみるとしっくりこないことが多すぎた。
わたしを束ねないで
わたしを止めないで
わたしを注がないで
わたしを名付けないで
わたしを区切らないで
私は これらの言葉を
私を決めつけないで!という反発の気持ち=思うようにならない自分の環境に対する不満と捉えた。
問題はそれぞれの連の後半部分
わたしは稲穂 秋 ~
わたしは羽撃き こやみなく~
わたしは海 夜 ~
わたしは風 りんごの~
わたしは終わりのない文章 川と~
?・・・???
何一つピンとこなかった。
今思えば
その頃の私は自分の世界が広がるとか自分の可能性とか
一切信じていなかった。
自由を求めることもできずに
心を閉ざして違和感や嫌なことを感じないようにしていた。
絶望していた。
それに気づくことさえなく。
そんな私に理解できないのは当然といえば当然のこと。
国語の石沢先生がこの詩について話してくれたのをおぼえている。
「そういうことなんだ・・・。」
その時、はじめて詩を 味わった 気がした。
そして今
わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく
拡がっていく
一行の詩
これはまさに自分自身のことだと思う。