見出し画像

【短編】画家の男

「おじちゃん、来たよぉ」

玄関から悟の声が響く。休日のたびに遊びに来る甥に男はもはや反応を示さず、キャンバスを睨み続けていた。
しばらくして、男がため息をつきながら「よう、悟」と声をかけると、部屋の隅で画集を眺めていた悟はパッと顔を上げた。

「今日は何の絵?」

画集を閉じて近寄ってくる悟に対し、男は体勢を維持したまま、数日前に描き上げた工場夜景の絵だといってキャンバスを見せる。手前に埠頭と、海を挟んだ向こう岸に工業地帯の眩い光。埠頭の先には1人の女がこちらに背を向けて立っている。美しい絵が描けたと思いつつも、男は何かが気に入らなかった。

売れない画家。男は20年以上この肩書きを抱えている。何とか生活はしてきたものの、すでに画家としての自負はほとんどない。ただ少しのプライドと未練が、かろうじて男を画家たらしめていたが、同時にきっかけも求めていた。

「なんだか悲しい絵だねぇ」

悟の放った言葉が、男の頭を打ち抜いた。

「どういうことだ?」
「うんとねぇ、女の人が悲しそうに見えるよ。せっかくきれいな夜なんだから、この人ももっと自信を持っていいんじゃないかな」

ふっ、と男は憑き物が落ちたように心が軽くなるのを感じた。仁王立ちした女のこちらを見つめる強い眼差しが脳裏に浮かぶ。指には吸いかけのタバコ、トレンチコートなんていいかもしれない。

「…なるほどな」

口をついて出た言葉には、蔓延る未練を断ち切った清々しさと、なによりこれまで適当に放っていた甥がこれほど繊細な感性を秘めていたことに対する驚きが含まれていた。男は、初めて他人を信じてみたいと思った。

「おじちゃん?」
悟が不思議そうに男に話しかける。男は悟に身体を向け問いかけた。

「なぁ悟、お前、絵を描いてみないか」
「え!いいの?いつも触らせてくれなかったのに」
「いいんだ。今日は一緒に描こう」

喜ぶ甥の顔を見ながら、男は部屋の隅に椅子をもう一脚見つけ、歩き出した。

いいなと思ったら応援しよう!