2021年の平和の祭典から学ぶこと

4年に一度だからと言って、オリンピック観戦という名目のもと、結局ずっとテレビを見ている事、3日目。こんなことで良いのかしら…

平和の祭典という名の通りオリンピックを見ていると、日々のニュースで見聞きする世界の悲しい、許しがたいニュースが嘘で、世界はなんて平和で友好的なのだろうという気持ちになり、心が救われました。人々が同じ方向を向いて誠実に努力する姿というものは、なんとも見ていて心地の良いものです。特にコロナが広がって以来、閉塞感や人々の不満がぶつかり合うのを目にしてきた1年半。世界の良い面を見ることができて私は嬉しく思います。

もちろん、オリンピック・パラリンピックには、各国の比較的恵まれた状況下にいて、国の代表を勝ち取るための我慢や努力をする力を持ち合わせ、試合の場で他の選手を敬い、参加のルールを守ることのできる人たちが最高のパフォーマンスをすると言う共通目的のもとに集まり、行われているものなので、私たちの日々の日常と比べると非日常で、まさにお祭りなのです。そういう意味では、多様性を謳いつつも、かなり限られた人たちによるお祭りです。

一方で、そんな特別な祭典もふたを開ければ問題があふれ出してくるのが現実です。正義の衝突がより複雑でより可視化されつつある今日、右を見ても左を見ても、もうなんでもやったもの勝ちなのか…という気持ちを持たずにはいられません。綺麗ごとではありますが、それぞれの立場や状況で、積み重ねた努力や費やした個々のエネルギーが、権力の悪用や制度やルールを無視することで、ないがしろにされることが少しでも減るように願います。

あ、願ってても行動しないと始まらない、その通りです。

私が取る行動は、親として自分の息子にできるだけのことを伝え教えることです。この平和の祭典ができる事、この平和の祭典が輝いて見える理由、そして偽善的だと言われても、それでもこの平和の祭典が必要な理由…やる事は沢山ありますね。

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