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航空機事故から学ぶ:C5A輸送機カーゴドアの爆発

ベトナム戦争末期、Saigon陥落間近の1975年4月4日、米空軍C5A大型輸送機は102人の孤児や米大使館々員らを乗せて、フィリピンのKlerk空軍基地へ向けて、慌ただしく離陸した。Saigonから46km沖の南シナ海をFL230へ上昇中、突然バンッと大きな音がして急減圧状態となった。LoadmasterがCargo Bayへ確認のため降りたところ、Cargo Doorが吹っ飛んでなくなっていた。
"Cargo door's gone!"と機長へインターフォンで伝えると、機長は酸素マスクを装着してFL100へ降下しながら、左旋回してSaigonへ引き返すことを決断した。ドアが破損して脱落する際に、4系統ある油圧システムのうち操縦に関係する2系統が破断してしまい、操縦も困難となった。
機長はMaydayを宣言し、throttleを駆使してSaigonへ向かったが、機首はup & downを繰り返した。FL100まで降下して酸素マスクを外し、後は滑空機のように最終着陸コースへ進入した。滑走路から11kmの地点でLine-upしたが、降下率が定まらず、Crash Landingになる態勢だったため、大人の乗客はBrace Positionを取った。同機はFull PowerでNose-upして着陸を試みたが、草地に1回接地して大きくバウンドし、その後地面に激しくぶつかって機体がバラバラとなった。胴体上部のPassenger Spaceは無傷で多くが助かったが、下方のCargo Bayは激しく損傷して、殆どが死亡した。結果的に175名が生存したが、乗員2名を含む150名以上が亡くなった。このうちの半数ほどは海外へ脱出させるために乗せたベトナム人孤児だった。
翌日、機長は空軍調査官らと墜落現場へ戻ったが、略奪者が遺留品を勝手に持ち出しており、機長の名前が入ったジェケットを着ていた物取りの男もいた。機長はその名前は自分だと指で示して、ジャケットを取り返した。
ミサイルや爆弾による破壊工作が疑われたため軍用犬に調べさせたが、その気配はなかった。Saigonの町中にビラを張って、有力な遺留品には懸賞金を賭けたところ、FDRに代わるMalfunction Detection Systemと軍関係者が撮影していた8mmカメラが供出された。米海軍は吹き飛んだカーゴドアを回収した。
Saigonの陥落が目前に迫り、重要な残骸以外は画像に収めて、調査団は米国へ脱出した。事故原因はカーゴドアの左右に7か所ずつある爪が、片方2か所で機体に完全にロックしていなかったことが分かり、そのためFL230付近で機体内外の圧差に耐えられず破断したと結論された。
米空軍は改善策として、しっかりロックされた時にだけ貫通するピンを作成し、14か所に全て貫通させてロックされたことを確認するようにした。

前述したDC10B747型機のカーゴドアと比較して、軍用輸送機の後部カーゴドアは、形状や使用法が異なります。軍用機の場合、車両や砲を積み下ろしする関係で、機体後部が外側下方へ開閉して、ドア上方が滑走路に接地する形が多いです。しかもカーゴドアの上を重量物を乗降させる使用法を取ります。ですから、ドアの堅牢性は旅客機のそれより遥かに厳しく求められ、運用方法も難しいのです。
強固なドアは相当な重さであり、その上を重量物が通過するため、歪みや撓みが生じる可能性が高いです。また油圧で開閉する方式ですから、無理な力で開閉させる危険性があります。開閉操作はボタン一つですが、きちんと閂がかかったか、1か所ずつ目視確認する必要があります。
本件はベトナム戦争末期の軍用機の事故であったため、事故調査は多少等閑に見えなくもないですが、南Vietnam陥落時の逼迫した状況を鑑みれば、出来る限りを尽くしたのでしょう。
アフガン紛争時の2013年に、Kabul郊外のBagram空軍基地離陸後に墜落したNational AirlinesのB747型機の事故調査でも、事故調査の手法は同様でした。
事故の責任は一義的には機長にあるのですが、重量物を搭載しておらず、機内で固定しなければならない物品もなかった筈です。カーゴドアの物理的な変形よりも、Loadmasterがカーゴドア閉鎖の手順をきちんと確認しなかったのかが一番気になるところです。大急ぎで子供たちを搭乗させて、大至急離陸したため、何等かの手順上の欠落があったのではないかと思われます。

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