【BL小説】歯ブラシあります
ホームの電光掲示板に表示された終電の終着駅を見て黒木は一瞬目を疑い、そして青くなった。表示されているのは黒木のアパートの最寄り駅である。隣りで白井が「あれ」と呟いた。
困惑顔で見上げる白井を、黒木はこれもまた困惑顔で見つめ返した。
「…すまん」
先刻居酒屋で時刻表を調べたのは黒木である。黒木は飲み会のときはいつも終電を利用しているのだが、迂闊にもその列車が白井の自宅の方面まで行かないことには気がつかなかった。
自宅が市外のためめったに飲み会に参加しない白井を誘うことに成功し、少々浮かれていたせいもあるかもしれない。黒木の住む街から白井の街までは電車でも40分ほどかかる。
「…あー、漫画喫茶とかってこの辺ありましたっけ?」
「すまん…」
「いえ、自分でも確認しなかったオレが悪いんす」
うなだれる黒木を気遣ってか、白井はごく軽いいつもの調子で応える。
長めの金髪をリーゼント風に後ろに流し、耳にはピアスをいくつも開け、背中に龍の刺繍の入ったスカジャンを着込んだ白井は、一見すると一昔前のヤンキーそのもので、色んな意味で近寄りがたい印象を与えるが、それらはただのファッションでしかなく、彼自身はヤンキーではないらしい。
それどころか黒木は白井が駅の本屋でさりげなく崩れた平積みの本をきちんと並べ直しているのを何度か目撃している。基本的にお人好しなのだろう。もっとも、事情を知らない黒木は始め「不良の白井が万引きしようとしている」とあらぬ疑いをかけてしまったのだが。
そんな白井だから、先輩である黒木に熱心な誘いを無下にはできなかったのだろう。そのうえ電車の時間を気にする白井を、まだ大丈夫だと引き止めることまでしてしまった。――俺の責任だ。
「ホテル代出すから」
そう口にして黒木は自分の言葉にギクリとした。――違う、今のは変な意味じゃなくて――
「え、いいすよ〜気遣わなくて。オレ別に待合室とかでも平気っすから」
黒木が心配するまでもなく白井は言葉のままに受け取ったようだ。男同士なのだからここで深読みをする方がおかしい。わかっているのだが黒木にはそれが少し、ほんの少しだけ寂しかった。
しかしどうしたものかと黒木は思案した。お人好しな白井はいくら黒木が払うと言っても宿泊費を受取りはしないだろう。かといってこのまま駅で始発を待たせるなどという危険なことをさせるわけにはいかない。
これが黒木のようなガタイのいい大男であれば何の問題もないのだろう。だが困ったことに白井は威圧的なファッションにそぐわず華奢で小柄で、そして何よりよく見ると可愛いのである。
今も長い睫毛に縁取られた涼やかな瞳で不思議そうに黒木を見上げてくる。薄いが形のよい唇は色白のせいか化粧もしていないのに紅く蠱惑的だ。
こんな可愛い少年――年齢的には少年ではないが――を置き去りにして酔っ払いに何かされでもしたら…だめだ、危険すぎる。
「どうかしたんすか?」
しばらく無言で見つめてしまっていたことに気付いて黒木は慌てて目を逸らした。不審に思われただろうか。だがとにかく今は他に打つ手がない。
黒木は思い切って口を開いた。
「…うちに泊められないこともないんだが」
「え、迷惑じゃないすか?無理しなくていいすよ」
「そうでなくて…ちょっと…その」
迷惑どころではない。むしろ大歓迎なのだが、それが余計に困る。
「部屋散らかってるとかならオレん家の方がたぶんスゲーすよ。気にしないっす」
あははと無邪気に笑う白井を見て黒木はこっそりため息をついた。
「なんだ、やっぱ全然キレーじゃないすかぁ。お邪魔しまーす」
「あ、便所そこ。フロも」
玄関を入ると簡素なキッチンがあり、すぐ突き当たりにユニットバスがある。恐ろしく狭いが一応使える。
「フロ借りていっすか?汗かいちゃって」
「お、おう」
ごく当たり前のやり取りのはずなのに心臓が跳ね上がった。『お泊まり』というファンシーな言葉が頭をよぎり眩暈がする。
そんな黒木をよそに白井は躊躇なくバスルームのドアを開けた。
「あれ、シャワーカーテンとか付けないんすか?」
「ああ、狭いから。別に濡れたら拭けばいいし」
「まー確かに、ヒタッとくる感じとかちょっと気持ち悪いすけど」
白井は笑いながら、黒木が用意したタオルを受け取った。
ほどなくしてバスルームからくぐもったシャワーの水音が聞こえ始めた。
黒木はベッドに腰を降ろして頭を抱えた。
――いかん、落ち着け俺!これは単なるアクシデントだ。俺は奴を丁重にもてなし丁重に送り出せばいいんだ。余計なマネは一切するな!今おかしなことをしたら今まで築いてきた関係すら壊れてしまう。それだけはだめだ。
入学してきた当初は悪い意味で気になる存在だったが、派手な見掛けや軽そうな態度に反してお人好しで屈託のない白井に、黒木はいつしか好意を持つようになっていた。
むさくるしい男ばかりの専門学校において、白井のさり気ない美しさは密やかに咲いた花のようでもあった。他の連中がそれに気付いていないらしいのも、独り占めしているようで嬉しかった。
だから親しく話すようになってからも、仲の良い先輩後輩でいられるだけで満足していたのだ。
それが少し欲張ったばかりに、とんだことになってしまった。
ベッドは白井に譲り自分は床で寝るとして、何か掛けるものを出さなくてはと立ち上がろうとしたとき、浴室からゴンという硬い音と叫び声がした。
「どうした!?」
何事かと声を掛けると、タオルを巻いた白井がドアを開けて苦笑した。
「いや、ちょっと手が滑って…」
白井のほんのり上気した上半身はなるべく見ないように、指し示す先に視線を送る。床も壁も水浸しで、便座の蓋に置いていた白井の服もびしょびしょに濡れてしまっていた。
「スンマセンほんと」
白井にはTシャツとハーフパンツと下着も貸してやった。濡れた服はハンガーに掛けられてカーテンレールにぶら下がっている。
「気にするな。全部俺のせいだから…すまん」
今日はもう何もかもが白井の迷惑になってしまっている気がする。白井が笑って許してくれるのがかえっていたたまれない。
「なに言ってるんすか、ヘコまないでくださいよぉ。ほら、センパイもフロ入ってさっぱりすれば気分も良くなりますって。ね?」
「あう…」
快活に言う白井に背中を押されて黒木はうなだれたまま浴室に向かった。 白井の言う通り、熱いシャワーを浴びるといくぶん気分が良くなった。これ以上酷いことにならないように気をつけようと思う。多少アクシデントはあったが白井には明日の朝気分良く帰ってもらいたい。
部屋に戻ると白井はベッドにもたれて漫画雑誌を読んでいた。すっかりくつろいでいる風情にほっとする。
冷蔵庫からお茶を取り出してグラスに注いでやる。後ろから白井が感心したように言った。
「前から思ってたんすけど、センパイ意外といい身体してますよね。何かやってんすか?」
唐突に身体のことを言われてドキリとする。黒木はいつもの癖で下だけ穿いた首にタオルを引っ掛けている。
「…水泳をちょっと」
高校までは水泳部で、今も時間があれば泳ぎに行っている。水泳は気の弱い黒木の拠り所でもある。人と競うのは苦手だが、工夫して自分のタイムを縮めていくことは自信に繋がったし、ナルシストだと思われそうなので人には言わないが、黒木は鍛えた自分の身体を気に入ってもいた。
好意を持っている相手にそれを褒められて嬉しくないわけがない。肌をさらすことには慣れているはずなのに、白井に見られていることを意識すると妙なむず痒さを感じた。
「へー、キタジマとかイリエとか水泳の人ってみんなすげー身体してますよね。オレも昔やってたんすけど、キタジマみたいになる前に辞めちゃったんすよね」
白井は立ち上がって黒木の身体を眺めまわし、しきりに感心している。立つと大きすぎる黒木のシャツが白井の小ささを一層目立たせた。
いつもは上げている前髪がフワリと額にかかり、それが童顔の白井をさらにあどけなく見せている。白井が動くと洗ったばかりのサラサラの髪から自分と同じシャンプーの香りがした。
一瞬、自分の服を身に着け同じ香りを纏っている白井自体が、自分の所有物であるかのような錯覚をおぼえる。白井に触れたい衝動が湧きあがる。
「ちょっと触ってみていいすか?」
「えっ!?あ、ああ…」
動揺で声が裏返ったが、白井は気にする風もなく黒木の二の腕を掴んだ。
「おー…すげぇ。オレ体質なのか鍛えても筋肉付かないんすよ―。うらやましいっす」
白井は言いながら二の腕やら胸やらあちこち撫でまわした。
「…………」
白井は面白そうに黒木の身体を触っている。緊張からくる発汗と早鐘のような心拍を白井に悟られないか、黒木は気が気ではない。
それに、触られていると妙な気分になってくる。
白井の細い指が脇腹の筋肉をなぞった。
「…くすぐったい」
「え、この辺すか?」
上目遣いにニヤリと笑ったかと思うと、白井は両手で黒木の脇腹をくすぐってきた。黒木の身体がビクリと震える。
「…っ、このっ!」
すかさず黒木もやり返す。白井は身悶えしながらベッドに倒れ込んだ。
「うわっ、あはははすんませんあははやめっ…あっ」
「………」
「…先輩?」
突然黒木は手を止めた。潤んだ目で見上げる白井は頬を紅潮させ息を乱している。
「白井…」
「え?んんっ」
黒木の唇が白井の口を塞いだ。押し返そうとする手をベッドに押さえつけ、逃げられないように身体ごとのしかかる。
「お前のせいだ、白井。お前がそんなに無防備だから…」
黒木は欲望の中心を白井にわかるように押し付けた。
「せ、先輩、勃って…」
「もう、我慢できない」
何か言おうとした白井の言葉ごと唇を奪う。強引に舌を差し込み口内を犯す。そうしながら胸までシャツを捲り上げ肌を乱暴にまさぐった。
キスの合間に白井の口から熱い息が漏れた。
最初は戸惑う素振りだったが、白井の舌は次第に自ら黒木の舌に絡み付いてきた。白井を征服して行くような感覚。
身体だけでも自分のものにしてしまいたい。強く抗われれば止めることもできたのに。黒木は僅かに残っていた理性を手放した。
黒木が目を覚ましたとき、既に隣りに白井の姿はなかった。濡れた服を干していたハンガーだけが空しくぶら下がっている。
重い上半身をベッドから引き剥がす。自己嫌悪と後悔が余計に身体を重くさせた。あれほど自分に言い聞かせたのに、簡単に欲望に負けてしまったことが情けない。
白井は昨夜は快楽に流されて受け入れていたようだが、一夜明けてきっと冷静になったのだろう。寝ている隙に黙って出て行ったのがその証拠だ。
人として最低なことをしてしまった。信頼を寄せてくれていた無邪気な白井を衝動に任せて力づくで汚してしまった。
白井はもう自分に笑いかけてはくれないかもしれない。今は自分の鍛えた肉体すら呪わしく感じる。
鼻の奥がツンとした。ベッドから出る気にもなれず、再び横になろうかと考える。それとも白井に謝罪のメールを送るべきか。既に泣きそうなのに電話で上手く話せる自信はない。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に部屋のドアが開いた。
「あ、先輩おはよーございます」
黒木は目を見開いてベッドから転がり落ちる勢いで床に額を擦り付けた。
「すまん!!あんなことをするつもりはなかったんだ!つい勢いで、魔が差したというか…本当にどう申し開きしていいか…」
「…つい?魔が差した?」
頭上から白井の低い声が聞こえた。
「本当に悪かっ―」
「本気じゃなかったんすか先輩は」
「え?って、あれ?その歯ブラシどっから出したの?」
黒木を睨み付ける白井の手には旅行用の歯磨きセットが握られている。
「…終電の時間まちがったのは事故だけど、オレとのことまで事故みたいに言わないでください。オレは、前から先輩んちに来たかったんです。先輩が忘れたいなら忘れてくれていい。けど、オレは、一生忘れませんから」
視界が歪み白井の姿がぼやけて見えない。瞬きすると握った拳の上にポタリと温かい雫が落ちた。
「あは、なんすか先輩、でかいなりして涙もろいんだから」
「ほっとけ」
手の平や甲で赤い目を擦る。
「イヤです。そーゆうところが好きなんすから」
白井は黒木の横に膝をつき、赤くなった耳に優しくキスをした。
おわり
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