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14歳の国

9月26日(日)17時開演
yhs sub-(re)play vol.9
14歳の国
脚本:宮沢章夫 潤色・演出:南参
会場:生活支援型文化施設 コンカリーニョ

概要

yhsは、高校生だった私がお小遣いで観劇をコンスタントに始めた頃から観ていた劇団です。
今回は3チームの異なるキャスティングで、1チーム2回ずつ、計6回の公演。私はBチームを観ました。
戯曲については、フライヤーに書かれていた言葉が、素敵、且つ端的で気に入ったので、引用します。

中学校の午後。体育の時間。無人の教室。
現れたのは5人の教師。おもむろに始まる持ち物検査。
生徒たちのカバンや机の中から見つけたものとは。
そして「見つけたかった」ものとは――。

久しい友人が立ちあがった瞬間と、背丈。

高校生からの友人(彼女も演劇をやっている)を誘ったので、一緒に観劇をした。
待ち合わせは、JR琴似駅。おそらく「コンカリ」に行くなら、みんなここで落ち合うでしょう。この駅と劇場が直結していて便利なのだ。
駅に着いて少し見回すと、友人はベンチに座っていた。私の方が先に気がつく。走らずに、歩いて友人の方へ進む。
少しだけ近づいたがまだ気づかれないので、友人にだけ聞かせたいような声で、名前を呼んだ。
ふっ、と顔をあげ、友人はすっくと立った。マスクでわからないけれど、二人とも同じ瞬間に微笑んだと思う。
久しぶりに並んで歩いたら、思っていたよりも背がちいさくて驚いた。
そのことを伝えると、「よく言われます」と言っていた。ごめん。

魚肉ソーセージは不安定

教師1(小林なるみさん)が、揺れる魚肉ソーセージを右手に持ちながら、「おかしいな」と呟く場面が前半にある。教師1は、何らかの工具を職員室から持ってきたはずだった。手で持っている部分は遠目からだと硬質な工具にも見えるのに、その先、丁度上半分くらいが、ぶるんぶるんと揺れていて、私もそれに共鳴するように不安定になった。
ソーセージであり、魚。これは、この上演のあらゆる要素の比喩と捉えられるのではないだろうか。この教室に席を持つ中学3年生は、こどもであり、少し大人にもなってきている。誰が見ても中学校の教室なのに、そこにあるのは誰も過ごしたことのない教室。教師が教室を出るときは必ずマスクを着用する演出があり、そこが90年代なのか2021年なのか、わからなくなる。5人の俳優の演じ方により、教師たちは教師以外の何者でもなかったが、同時にどこか思春期の過敏さや不安定さを持った人間達だった。

14歳の皮膚

魚肉ソーセージは、ビニールに包まれているとき、正体不明になると思う。食品ではなさそうな赤さ、先端の金具。
点線に沿ってぴりぴりと剥いても、線の通りに進まずに、いつも「半ビニール半魚」になってしまうのは、私だけではないはずだ。
あのビニールは、ソーセージで言う、腸を意味するのだろう。

教師たちが教室の外に出るときはいつも、扉のところで立ち止まり、ポケットからマスクを出し、着用してから、歩いていって見えなくなった。
この一連の動作は、まるでプログラミングされているようで、教室の中では揉めたり戸惑ったりしていたのに、突如教師たち自身の意志ではない何かが働いているようだった。
教室の中では90年代であろう会話がなされているが、外は現在・2021年なのか。いろいろと思いを巡らせたが、今は以下のように考えている。
20個の整然と並べられた机、中と外、マスク、舞台上の外に広がるたくさんの教室と組織。
それらを見ながら、「身体の免疫システム」のイメージが浮かんだ。
私たちはかつて、14歳だった。上演を観ながら、あの頃の不安定さや感覚の記憶がじわじわと身体のどこかから滲み出てくる。
実は人間は、それぞれの年齢の粘膜のような薄い皮膚が、地層のように被さっているのかもしれない。(だから老人の皮膚は厚くて硬く、幼児の皮膚はうすやわらかいのか。)
教師たちは20代~4,50代だったけれど、教室の中にいるときは皮膚を1枚1枚脱ぎ捨て14歳の皮膚まで戻り、その敏感でもろい身体で、14歳の国を守ろうとしているように見えた。

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