実力は運か、能力か
本日は朝から読書記録を書いていこうと思います。
先日、とっても学びになる本に出会いました。マイケル・サンデルさんの「実力も運のうち 能力主義は正義か?」と言う本です。
この本はいい意味で、私の生き方に対する考えを見直す機会になりました。
いきなりですが、皆さんは今勤めている仕事や学歴、スポーツでの成績は「自分の努力や能力のおかげ」であると考えますか?
少なくとも私は、「自分の努力」が全ての結果を作っていると考える人間でした。
なので、今までうまく言った結果は自分が頑張ったおかげ。うまく結果がでなかったことは自分の努力不足のせいにしていました。
でも、本当に自分の努力のせいだけなのでしょうか?
親からの支援や周りの大人の方々の支援は?
その時のタイミングや周りの環境の影響は?
本の中では、「いきすぎた能力主義社会が招く弊害」について書かれています。それは、結果が出たときにはその人自身の能力や努力の過程が認められる。学歴が社会的な出生の証明書になる社会だ。どんな弊害があるかというと、結果がでなかった人はどんな理由があろうとも「全て自分の責任」との汚点をつけられるのだ。
国によっては、肌の色によっての差別が残っているかもしれない。性別の違いもあるだろう。それに、家庭環境もある。これらは自分自身ではどうにもできない課題も含まれている。何かの結果というのは、本当に自分の努力のおかげなのだろうか。私も営業の仕事を振り返ってみて思うが、決して私だけのおかげではない。色んな方々の支援があったり、タイミングもあるからだ。
能力主義が行き過ぎた社会になっているとしたら、漏れ落ちたと言われる人が必要以上にチャンスを失い、将来に期待ができなくなってしまう構図になっているのかもしれません。
そして、能力主義も全否定できないところが納得です。能力主義が出来上がった背景の一つには、「人種差別」があります。顕著なのは白人と黒人です。黒人というだけであらゆる機会が失われていた時代に、希望の光となったのは、「自分が努力すれば道が拓ける」という考えです。生まれたときから運命が決まってしまう世の中なんて不公平だし面白くない。生まれたときの運命は、後天的に変えられるという考えが人種差別にとっては救いのものだったはずです。もし、能力主義が許されない社会であれば、ほとんどの人が生まれたときの状態によってその後の人生の幸福度が決まってしまいます。
この能力主義の考えが、今となっては弊害になっているフシもあるのです。
私はこの本を読んでいて、自分なりに考えたこととして、能力:運(6:4)の割合です。
行き過ぎた能力主義について否定されている本ではありますが、私自身の人生を振り返ってみると、自分の力で可能性が拓けるという考えに何度も勇気をもらった気がするからです。また、逆もあります。自分の能力のせいばかりだと、うまく行かなかった時にチャレンジ精神が失われます。なので、能力も運もどちらも大事だという考えを持ちつつ、割合は若干能力のほうが高い印象を持っています。みなさんはどのように考えますでしょうか?
是非、ご興味がある方は読んでみることをおすすめします!