「当たり前」の基準ってなんだろうか。多数派により形成されてる世の中は矛盾しているのだろうか。(「正欲」を読んでの感想)
おはようございます。今日は昨日読了した朝井リョウさんの「正欲」を読んで感じたことを書いていきます。まずは衝撃的な内容だったの一言。特に”ダイバシティ”について考えさせられる小説。多様性って言葉は聞こえがいいが、実は私達が「受け止めきれる範囲」での定義にすぎないのではないか?
小説では、主に人の性欲について取り上げられている。大多数の人は男性であれば女性に対して。女性であれば男性に対して。そして最近ではLGBTの概念も当たり前になってきた。このことは、今まで差別を受けてきた人が少しでも差別なく暮らすことにつながっている。けど、「上の概念以外」の人も世の中にはいることを知った。小説の中で出てくるのは「水」に対して性欲を感じる人。特に、蛇口からドバ!!っと噴出する水や人に水しぶきがかかる姿など。私にとっては当たり前ではないことだった。(恐らく世の中の多数の人にとっても当たり前ではない)
ここで疑問になったのは、「自分が世の中的に多数派ではない性欲」を持っている場合、他人に打ち明けることができるのか?それに、打ち明けたところで他人に受け入れてもらえるのか?私の身近にも実は公言できていないだけで、「自分だけが知っている性欲」に苦しみ、悩んでいる人がいるかも知れない。もしかしたら、小児性愛や犯罪に関わる性癖を持っている人もいるかもしれない。
今、世の中で当たり前になるつつダイバシティの概念は、実は大多数派でできあがっているものなのかもしれない。以前から大多数派の性欲を持っている私からしたら、LGBTという言葉も当たり前の認識になったことが素晴らしいことだと感じる。だが、上記のように、水や小児性愛などに比べると、LGBTの方が多数派であり、私達にとっても「受け入れやすい事実」だったからではないか。
「世の中の当たり前」というのは、当たり前を作る側の”受け入れられるレベル”で形成されているものなのだと感じた。とても難しい問題。
小説の中でも、普通の性癖を持っているが男性恐怖症になっている女の子が、水に性癖を持つ男の子にこんな言葉をかけていた。
あなただけでなく、多数派の人だって性犯罪を起こさないように自分の性欲を押させるように我慢している。男が女を好きになる。女が男を好きになる。それは当たり前かもしれないけど、それによって苦しむこともある。皆人それぞれに苦しみはある。自分だけが少数派だからといって犯罪を起こしたり、間違ったことはしていけない。(文章そのままでなく私なりの解釈で記載している)
確かに、女の子が言うように、多数派のように女性に恋愛感情を抱く男性と、水に興奮する男性でもそれぞれに悩みがある。そして、同じように犯罪は起こしてはいけない。
けど、どうだろうか。結局小説で出てきた、水に興奮する人たちは小児性愛で捕まった。大人になってから、水遊びをする機会がないので、子どもたちを集めて、水遊びしている姿をみることを企画した。が、世の中からは小児性愛だと認識され犯罪者扱い。本人は水に興奮するという性癖も打ち明けられない。だって、世の中の多数派は、この事件を見た時に小児性愛の認識が多いから。その人とって”当たり前”の理解だから。水に性癖を感じるって言ったところで、嘘や言い訳に捉えられるのだろう。
一人ひとりが活きやすい世の中にするためには、多数派の当たり前の基準を多数派である私達が当たり前のように受け入れないことが大切なんだろうなって思える小説だった。少数派である人たちが声を上げやすいようにすること。そのことで、小説のような犯罪にとらわれる出来事も減るのではないか。なぜなら、人に隠して生活しないといけない状況がなくなってくるから。何でもかんでも受け入れろ、と言う訳ではないと思う。しかし、多数派の当たり前の基準を持った人が、”私では理解できない”ことに対して、今以上に耳を傾ける姿勢を持つ。コミュニケーションで言えば「対話」をする姿勢を持つことが大事なんだろう。
私も一人の息子がいるが、「もし息子が水に性癖を持つ」ことになったら、私はどのように受け止めるのか。当事者になったつもりで、考えさせられる小説だった。私達の当たり前は、当たり前ではない。