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日常の営みを描く一冊

好きな小説に出会った。
夫の積読本の中から引っ張り出した一冊だ。 
佐伯 一麦著の「渡良瀬」(新潮文庫)。

茨城県古河市が舞台で、同じ茨城県民としてどんな小説なのか気になって読み出した。

昭和の終わりが見えてきて平成に移行する頃、東京から家族と共に転居し、地方の工業団地の配電盤製造の工場で働く一工員の日常を描いている。 
主人公の南條拓は、自分の電気工としての経験を照らし合わせながらも、先輩工員の助言や仕事ぶりに敬意を払い、地道に新しい仕事を習得するため、誠実に真面目に向き合う。
職場での配線作業、通勤の風景、休憩時間の同僚との日常会話、帰宅後から出勤までの自宅での生活、同僚やご近所との付き合い等、主人公の日々の生活が坦々と映し出される。
工場での配電盤の配線作業の描写は詳細で、その場に居ながら配線の仕方や、ハンダ鏝や電気ドリルなどを使っての作業の手元を覗いているような感覚になる。
飾らない端的で平易な文章に、主人公南條の作為のない素直な人間性も滲んでくる。
ただ、人それぞれ見えないところでは抱えてるものがある。 南條の場合は、若い父親だが、三人の子供のうち長女が緘黙症、三人目の長男は川崎病を患っている。 妻とも分かり合えない隔たりを感じながらの生活だ。
それでも、自分自身で解決の糸口を見つけるため、住処と職場を変えて臨もうとする。 静かでも内なる強い決意を持っている。
大概の人は繰り返される何気ない日常の流れの中で生きている。 その平穏な日々を続けていくために、壊れないよう他には見えない表さない修復の努力も重ねているのだろう。
渡良瀬遊水地の広大な葦原に立ち、過去の足尾銅山鉱毒によって失った村にも想いを馳せながら、この地で新たな人生を見据えて日々を丁寧に生きている。

日々を丁寧に生きるという姿としては、映画の「PERFECT DAYS」も好きな作品だ。 
東京都心の公共トイレ清掃員の日常をきめ細かい描く。 ほぼ毎日同じルーティンで、朝の目覚めから出勤、トイレ清掃の仕事、昼休憩、仕事後の一杯、銭湯、就寝前の読書。トイレ清掃という仕事ぶりは、実直で、こんなにと思うほど丁寧で完璧だ。
仕事の合間に見上げる木漏れ日を感じながら写真撮影、移動の車内でカセットテープでの洋楽鑑賞で心を潤す。
話題性のある公共トイレも見どころだが、不満に思うこと無く、ただ粛々とトイレ清掃という仕事に向き合い、贅沢のない日々の生活を愛おしむ姿に、生きていく幸せとは、と自分に問い直したい思いがする。
毎日玄関の扉を開けて、空を見上げ仕事に向かう時の主役の役所広司の表情がいい。 今日生きていることに感謝して、また一日気持ち良く生きようみたいなささやかな生の喜びを噛みしめてるような。

「渡良瀬」の南條は、生活の合間に小説も書き、モーツァルトなどクラシック音楽を好んで通勤途中に、ウォークマンで聴いている。 昭和の名残りを感じる空気感も懐かしさを感じて好きだ。



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