ようやく見つけた私のドルチェ ~音探しの旅
どうしたものだろう。演奏会まであと1週間しかないというのに、曲の中盤が合っていないとピアノ伴奏者に言われてしまった。何回やっても彼女は頭を横に振った。前回noteに書いた例のドルチェdolceのくだりだ。私はこのドルチェが曲の要だと思っていたから、伴奏者の違和感をどうしても払拭したかった。自宅で譜面を読み直し、何度も録音を聴いた。違和感の元はどうやら、相方のフルーティストとのドルチェに対する解釈の違いにあった。
ドルチェに至る前の箇所は、piu animatoとある。イタリア語で「もっと快活に」という意味だ。快活どころではない。高音から低音に向かって、6連符や7連符が高波のように交互に押し寄せてくる。まるで荒波の中を小舟がもみくちゃにされているかのようだ。その後、一旦落ち着き、凪の状態になる。そしてドルチェが来る。誰かの感情の内に入り込むような、内向的な音が続く。ドルチェが終わると、ゆっくりとしたテンポで、フィナーレに向けて徐々に解放に向かう。深く、穏やかな海に抱かれるような感覚。美空ひばりの『愛燦々』のような、今、掌の中にある小さな幸せを賛美するイメージが浮かんだ。
はっとした。これは人の人生なのではないか。piu animatoは、予期せぬ出来事に翻弄される人の人生で、ドルチェは、この世の不条理を引き受けざるを得ないけれども、まだ引き受け切れずに困惑し、苦悩する人の孤独なのではないか?「どうしてこんなことが起きるのだろう」「なぜ私なの?」と。
ならば、ドルチェでは極めて個人的な感情を吐露するような、不安定で繊細な、風に揺れる柳のような、複雑な音を出したい。だからここはあまりビブラートをかけすぎず、歌い過ぎたくない。相方のフルーティストとささやき合うように演奏したかった。このイメージを皆で共有して、本番まで個人練習を重ねた。
演奏当日。自分の番を待つ。私はある人の存在を強く感じていた。つい先日他界した友人のことだ。実は当初、彼女がこの曲を伴奏するはずだったが、初回の合わせ練習が彼女との最後の演奏になった。涙に暮れた。彼女を思い出さない日はない。悲しみやショックから精神的に落ち込んだが、この曲に向き合うと癒された。
演奏中、彼女のことを想った。彼女の人生と音楽、喜びや幸せ、苦しみや悲しみ、愛する家族を残して一人で逝かなければならない人の孤独。それらを想像しながら、一音、一音に心を込めた。例の乱高下するpiu animato を終え、自問するドルチェにさしかかる。すると、これまで経験したことのない、自分の身体を超越するような、不思議な感覚に包まれた。ドルチェを吹いているのは私ではない。音楽そのものが私を介してドルチェを奏でていたのだ。気づくと、音楽の一部になっていた。彼女が聴きに来てくれて、すぐそばで私たちの音楽に魂を吹き込んでくれたように思う。生涯忘れがたい演奏となった。
演奏後、家族や友人たちが次々に労ってくれた。会場入口で開かれた小さな打ち上げで、他の出演者や友人たちと歓談していると、60代くらいの見知らぬ男性が、まっすぐ私に向かって歩いて来た。軽く挨拶した後、「あなたの演奏はとても印象的でした。音が深い(grave)ですね」と興奮冷めやらぬ様子で彼が言った。
深い音。
これは、これまで私がずっと探し求めてきたもので、今も探し続けているものだ。何と有り難い一言だろう。こうして自分の音楽が見知らぬ観客に届いているということに、私は深く感じ入ると同時に、自分の演奏に責任を感じ、背筋が伸びる思いがした。歳を重ねるごとに深みのある人間になりたい。人間の矛盾した複雑で豊かな感情を音にのせられるようになりたい。そう常々思っている私は、この男性の一言にとても勇気づけられた。
聞けば、近隣に住んでいて、たまたまパン屋でチラシを見掛けて、この演奏会に来たと言う。クラシック音楽愛好家で、家ではCDやラジオを聴いたり、プロやアマチュアの演奏会を聴きにしょっちゅうパリまで行ったりしているそうだ。「次のあなたの演奏会はいつですか」「どこかのアンサンブルに入っていないのですか」と矢継ぎ早に質問された。いつか良いアンサンブルがあったら入ってみたいと思っていると答えた。そういえば、亡くした友人も私にアンサンブルに入ることを熱心に勧めてくれていたのだった。
恥ずかしながら、私は今まで、一つの曲をこれほど深く考え抜いたことはなかった。この曲を通じて、音楽に対する向き合い方を学んだ気がする。彼女の存在が曲の解釈に深みを与え、私の音楽を何倍にも何十倍にも豊かなものにしてくれた。彼女に深く、深く感謝している。そして、ドルチェについての重大な指摘をくれたピアノ伴奏者、このトリオの機会を作ってくれた相方のフルーティストにも感謝の念を捧げたい。さらに深い音を目指して精進したい。
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