古文書を学んでわかること
古文書を訳したものを今年1年投稿してきましたが、自分自身でイチから古文書を読めるようになることと、すでに訳した古文書を現代語として読むことは、まったく別物だとお伝えしたいです。
書かれている歴史を知るという点においては、書物に書かれたものを誰かの手を通して知るか、自分自身で知るかの違いだけなのですが、その「書かれていること」を知ることだけが、歴史を知ることにはならないのです。
例えば、古文書には変体仮名(へんたいがな)というものが存在します。
ひらがなの「ま」の場合、元の漢字「末」「万」「満」などを使って、ひらがな「ま」として読ませようとするのですが、当然これらを知っていることが、古文書を読む人の絶対条件なわけです。
同じように、「鉄漿」と書いて「かね」と読みますが、これはお歯黒のことを指しますので、「鉄漿」=「お歯黒」と即座にイメージできなければいけません。
いわゆる当て字の類は、古文書では尋常ではない量の多さで、これは当時、イメージする力というものが、今の比ではないくらい必要とされていたということを意味しています。
そうしたことが古文書を読むにあたって必要な素養だったということですし、逆にそうしたものを身に着けていなければ、読むに値しない人、ということにもなったのです。
それらは、今実際に自分で古文書を読んでみてもわかることですし、現代語訳したものからでは、絶対に窺い知ることはできません。
句読点がほぼゼロのどこで区切ったらよいか大いに悩む点、「゛」(濁点)があってもなくても書き手の問題ではなくて、読む人が自分で考えてくださいね、というスタンス。
現代は何から何まで手取り足取り誰かが何とかしてくれる世の中になってしまったので、自分でなんとかする・自分で考えるということが、どんどん退化してしまっていて、これは本当に末期的状況ではないかというふうに、わたしは常々危惧しています。
古文書を通してみて、書かれてある内容だけではなく、こうした「行間を読め」的な部分のほうがはるかに意味があることだと、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいと強く思うのです。
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