食の問題は社会の問題につながる
戸恒香苗(埼玉・加須市)
大正時代の「一膳飯屋」
先月半ばからのどが痛み出し、咳が出て2週間、何ともやる気が出ず、横になってラジオを聞いていました。聞くともなく聞いていると、大正・昭和初期の時代、今から100年前ですが、困窮した人々を飢えや孤独から救った“食堂”の話でした。やおらメモを取ったのですが、寝ながら取ったのでぐちゃぐちゃで読めません。
後から調べるとNHK第2放送の講座で、「胃袋の近代―食と人びとの日常史」という本を書いた湯澤則子さん(法政大学日本史)が、その本の内容の解説をしている、そんな感じの話でした。著者は、その当時の都市に住む人々にとって、寄り集まって食べることは、胃を満たす、栄養を取る以外に何か意味があったのではないかと、当時の資料を紐解いていきます。(この本を早速、図書館で借りてきました)
大正の初期、つまり、近代に入って、工業化、都市化が進み、農業地帯から賃金労働者として、東京に移り住んだ人々が増え、彼らが自分たちの胃袋をどう満たしていたのか、稼いだ賃金はほとんど食費として費やされたと書かれています。その頃も夫婦が共稼ぎとなり、子どもの食に手が回らない状態になっていきます。子どもたちの食の孤立化も生まれてきたのです。
その時に「方面委員制度の設立」に奔走した「小河滋治郎」なる人物がいて、要するに今の民生委員制度のもとを作った人だそうです。彼は、労働者の増加、物価の高騰によって苦しむ民衆の胃にいかに満足を与えるかが、社会政策の骨子だと主張し、犯罪が起きる背景には、貧困、教育の欠如があるといい、「食の問題は社会の問題につながる」と説いたそうです。湯澤さんは、それこそ現代の食と社会の問題につながっていると考え、この本の大きなテーマとなっています。
中に林芙美子の「放浪記」の抜粋があり、大正時代末、芙美子が一膳飯屋に入り、ごった煮とお新香で12銭を払う。そして後から入ってきた40がらみの労働者は、ごはん、肉豆腐、みそ汁で10銭の食事をして腹を満たしている風景を描いています。
「東京で働く労働者は、それぞれ自分の胃袋を自分で満たす必要がある人々である。こうした孤立した胃袋が集まる一つの場所、それが一膳飯屋なのである」。
この10銭、12銭の代金は、日雇いの人々にとって決して安い食事ではなかったといいます。それでも、ここ一膳飯屋には、様々な階層の人々が出入りしていたといいますが、労働者を中心に、行商人も多く、“孤立した胃袋”がそれも“中流”以下の人たちが集まる場所であり、なくてはならないものになっていました。大阪市での一膳飯屋の調査が克明に出ています。要するに、大阪市では、1日当たり大阪の全人口の3パーセントにあたる5万1600人が利用していたということです。
「食」だけでなく「職」への百年前の試み
また、大阪にある民営の「大阪自彊館(じきょうかん)」という食堂の紹介があり、きっと、福祉関係に携わる人たちにはよく知られている場所だと思いますが、明治45年に大阪の西成の地に、「宿泊救護、職業紹介部を併設した授産事業の施設」として創設され、大正7年(1918)から食堂事業が始められたのだそうです。
そう、今でいうNPO法人みたいなものでしょうか。その目的は「その日食べることに困っている人々の胃袋を『食』によって満たすだけでなく、これから先の日々を暮らすための『職』にたどり着く入口を提供することにもあった」のです。この食堂の看板には、「なんびとでもお入りください」とあり、71坪、100席、一食一〇銭で、一日千人を超えることがあったというのです。
そして、さらに驚くのは、この事業はいまだに大阪の地で100年以上継続されているのです。「自彊」とは自ら強くするという意味ですが、この100年の時をどのように持ちこたえてきたのかとこれも驚きです。というか、この事業が途切れないということは、富国強兵の時代、戦時、資本主義、消費社会を経る中で、そこからこぼれる人々が次々に排出され、それをどうにかしなければと動く人々がいるということでしょう。今では高齢者支援、障害者支援、もちろん困窮者支援、子ども食堂と様々な事業を手掛けています。
大阪自彊館の食堂では、以来2つのことが大事にされていて、まず、対面盛り付けすること。誰かにご飯をよそってもらい、お代わりするときにも対面でお願いすることで、食を通した人との関わりが生まれてくるからです。そして、食器は、手間を惜しまず小鉢で提供すること。集団の場だからこそ合理化せず、食事は「文化」であることを伝えているのだそうです。
私たちが1987年から2008年までの20年間、駒込の地でこもん軒の定食屋をやっていたことを思い出します。福祉を掲げたお店ではなく、ただただ「街の中のお店」であることにこだわりました。「障害」者が働く事業所にすることで行政の支援を受けることはせず、働く人の同一時間、同一賃金の“理念”を大事にしました。そして、街の誰でもが入れるお店であったのですが、人の手当てや赤字経営で、こちらの方が困窮してしまいました(笑)。対面であったし、小鉢、漬物、みそ汁は全て手をかけて作りました。二〇年間、街にあったことで、近隣の人たちからは、あそこに行けば、安心したものが食べられるという評判があり、そこはちょっと自慢ではありました。
「大阪自彊館」が、経営事業を自前でやり通したのかは興味があるところです。歴史を見ると、財団法人となっていますし、大阪府・市からの受託事業もやっていて、公的資金も入っているようです。それにしても、事業の規模の大きさ、事業種類の多さが桁違いで、拡大することで理念が置き忘れられることがなかったのかは、内部で何が起きていたかを含め、とても興味あるところです。
「ここは他所とちがうぞ」
また、「二葉保育園」の実践として、「五銭食堂」の紹介も興味深いものがあります。東京で華族の子弟の幼稚園に勤務していた方が、貧民街の子どもたちにも同じ保育をしたいと、当時の新宿南口近くの貧民街に200人の子どもたちを預かる保育園を開いたと言います。明治製菓から出されるパンの耳に黒蜜をかけておやつにしたそうです。
そして昭和に入って、「五銭食堂」を試みます。園児の親たちの胃袋を気遣って作られたのですが、五銭は子供のおやつ代にもならない安さだそうです。一六席で一日、朝昼晩、二〇〇食出たと言いますから驚きです。けれど、家賃、人件費、食材の高騰で不足が生じ、閉鎖になったのです。(この二葉保育園も、120年間、保育だけでなく養護施設、自立支援の活動を社会福祉法人として継続し続けています)
それでも、この実践は失敗ではなく「利用者の間に『ここは他所の飯屋とはちがうぞ』という意識が芽生え、食堂が単なる食べるという意味を超えて、人々のよりどころ、信頼できる居場所、挨拶を交わしてお互いの存在を気遣う場所になったからである」と湯澤さんは書きます。
こもん軒も二〇年続き、同じ理由で閉めざるをえなかったのですが、私たちは、一日四〇食で精一杯でしたから、人々に向き合う熱量が違うのでしょうか。単に食事をするところでなく、食事に来た方たちがどんな思いをもっていただけたのかと、気になるところです。
近代は「自分の胃は自分で満たす」時代になった
明治、大正、昭和初期の人々の生活がどんなものだったのか、映画の時代劇や、落語の話や、漱石や鴎外の小説を読んで想像し、断片的ですが知ったつもりでいました。
考えてみれば、私の父母は大正生まれ、親たちがどんな生活をしていたのか、何を食べていたのか、もっと聞いておけばよかったと思うところです。父は大正2年に東京で生まれ、骨董屋の祖父はどうやってお金を稼いで生活を立てていたのか、父もよくわかっていなかったようです。長男がかなり年上で、その方が稼いでいたようで、なんとかご飯を食べていたようです。その当時の学制がのみ込めてないのですが、中学校は通ったのかな、お金がなかったので今の理科大の給仕さんをしながら、大検を受けたと言っていました。飯田橋あたりの借家にいたようですが、子どもの頃、新宿の赤城神社や、茗荷谷まで遊びに行ったと言っていて、途中で貧困地帯を見かけることがありましたが、貧乏でも自分たちの貧乏とは違うと思っていたようです。
そこには、自分たちは立ち入ってはいけない場所のような言い方であり、湯澤さんが、「江戸から東京になって、貧しさは恥になり、『自分の胃は自分で満たす』という自己責任の時代に移行した」と言っているのと符合しているのかなと思います。もうその時代から、貧困は自己責任になっていたのかと驚きます。
「残飯屋」の存在、そこにも交流が・・・
以前、木田順一郎著「東京の下層社会」(2000)を読んだ中に、救いようのない「極貧階層」の人々の生活が書かれていて頭に残っています。父たちの生活よりさらに困窮している人々です。きっと、一〇銭の一膳飯屋は遠く、貸家ではなく木賃宿で過ごす人たち、その日の食事もおぼつかない極貧生活を送る人たちの生活がこの本に描かれています。この本では彼らを「細民」という語で呼びます。
その当時大正初期(大正9)ですが、東京の人口は200万人、そして細民は30万人と、記されています。けれど、「貧者に手を差し伸べると、彼らの独立心をそぐので有害だ」を、弱者切り捨ての口実にかかげ、福祉政策や貧者対策を講じることに消極的にしていったのです。
この主張は、今でも私たちの会話の中で聞かれる言葉です。生活保護が支給されることが、その人たちを甘やかしている、私たちの税金が努力しない人たちに支給されるのは釈然しないと発言する人たちがいます。
さて、そこに書かれている「残飯屋」の存在は、細民と言われる人たちにとっていかに日々の命をつなぐ存在として重要だったかがわかります。現在、東京で商業地帯、高級住宅街になっている場所が、貧民街であったといくつかの場所を挙げています。貧民街は兵舎であったり学校、大学、劇場、病院、料理屋と隣り合わせの地域にあり、そこから出る残飯を引き取る業者がいて、業者は、残飯をそのまま手づかみ大盛りで5銭で売ったり、状態のいいものはま弁当に作り直して売ったのです。大正初期、様々な残飯の組み合わせで売っていたらしく、それは今で思うほど奇異ではなかったということです。
当然、買う人と売る人だけの関係ではなく、そこにも交流があります。3銭しか払えない人に業者が貸すこともあり、次に返してもらうという関係もあったといいます。また、残飯を扱う業者の中に、方面委員(民生委員)がいたという話も紹介され、ただ、残飯を売る商売人というだけではなかったというのです。
ここで、湯澤さんが指摘するのは、それだけの残飯が出るということは、十分満ち足り、余る食事をしている人たち・場所が厳然とあるということです。それは現代にもつながっています。
隣り合わせの貧困
現在の子どもの7人に1人が貧困状態にあると言いますが、ケータイをもっていろんなグッズを持っている子どもたちの姿に、100年前の貧困とは別物のように感じますが、でも食事を満足に食べていない子どもたちがいるという現実が厳然としてあり、改めて100年前と大して変わっていないのだと気づきます。
また、池袋の公園で、月2回お弁当を配る手伝いをしている人から話を聞きました。この活動はコロナ前は、ボランティアの人たちが炊き出しでその場で皆さんが食べていたそうです。そして今はお弁当になり、以前の倍にあたる人たち600人が並び、最近は若い人たちも並ぶようになってきているといいます。お弁当は、そこで食べることはできず持ち帰りになりました。
その人は、弁当をもらう側の気持ちがどんなものかいつも意識していないと、施しているという傲慢さがでて、知らず知らず横柄な態度が出てしまうと言っていました。数年、関わるうちに、お互いの顔やどんな人かも分かるようになり、心が通じ合う体験をしているようです。
この一食が命をつなぎ、“自分の胃袋が誰かに気遣われている”、それは自分たちが孤独ではないという感覚につながり、湯澤さんがいう「食べるという行為は極めて個人的なものに見えて社会的なものである」ということなのだと思います。
私たちはコロナの時期、仕事を無くした人がたくさんいたことを目の当たりにしました。また、私の近くでも非正規雇用の方が疲れで眠れず、調子を崩したとたんに仕事を失い、家賃も未納になり、住む場所を失う現実にも遭遇しました。仕事を失う、住む場所を失うのは、本人の責任ではなく、本人のあずかり知らない条件が重なることでしかないのです。その人に対してできることは、その日のご飯を一緒に食べることぐらいですが、せめて誰かに気遣われているという感覚になってほしいと願っています。
都会の繁華街には、飲食店が並び、世界中の料理が私たちの目や胃袋を楽しませてくれます。けれど、その裏では夥しい食品ロスが出ています。レストランもお店の維持に四苦八苦、働く人たちも必死、隣の公園のお弁当の列に並ぶ人たちも必死、お互い薄皮一枚で隣り合わせて生きている、それが今という時代のような気がします。
私などは、レストランに入ることはコロナ以来もうありませんが、感染云々ではなく、昼食の値段が1000円近くになるので私の財布には高すぎるのです。コンビニで3~400円のおにぎりやサンドイッチで済ませることが多く、これが今や大正時代の「一膳飯屋」の役割をしているのだと思います。
「子ども食堂」と地域
大正時代からこれまで、困窮する人々の胃袋を満たすために、民間団体が様々な工夫、試みをしてきたわけですが、官も見て見ぬふりをしたわけではなく、東京では公設の簡易食堂が設置され(東京では直営が5か所、委託が4か所あった)、各地の都市で公益食堂が作られていました。積極的に関わろうとする動きがあり、1食10銭で、1000人近くの人たちが並んだと言います。
大正7年、不況と物価高、米価の高騰で、東京の公設食堂は1日、3800人の客が利用したという盛況ぶりだったそうです。けれど、震災により閉鎖となり、その後の復興で開業しても、利用者は増えず、廃業に追い込まれたのだそうです。行政の胃袋への関与は、一時的な救済でしかなく、根本的な解決につながっていなかったのでしょう。
公営食堂が衰退したのと対照的に「共同炊事」が広まっていったのだそうです。工場の炊事、会社、商店、遊郭への共同炊事がはじまり、農村でも共同炊事が行われていったのです。栄養が考えられ、炊事の合理化がなされ、同じ釜の飯を食べる仲間意識にもつながっていきます。特に農村の共同炊事では、戦争への道を走り出した時期に重なり、戦争に勝つ体づくりのための食事に重きがおかれていくのです。
この官製施策が「国と戦争への貢献になるという政治的な目的のために、科学と国家が人びとの胃袋に関与していく過程であった」という裏面を湯澤さんは指摘しています。
今、日本各地で「子ども食堂」が立ち上がってきているのは、この100年まえの歴史の流れからも当然の道理かな―と思うところがあります。困窮家庭があればどうにかしなければと、人は動くのです。当然、個人、民間が負う問題でないし、まさしく地べたの問題は政治の問題であるわけですから、国・行政が手を差し伸べるべき問題であります。確かに、この「子ども食堂」という民間の動きは行政の補完になっていないか、行政に楽させていないかという疑念も当然だと思っています。
ただ、現在、「子ども食堂」は、全国で9000か所あり、公立中学校とほぼ同じ数あると言われています。困窮家庭の子どものための場所と思われがちですが、それにとどまらずに、地域の子どもたち、またその親たちの交流や、高齢者、障害を持った人たちの居場所であったり、学習支援や、地域の交流に関心のある人たちが出入りする場所になっています。
さて、厚労省は、当然この「子ども食堂」の活動を支援していて、そして、全体の活動を把握していると思います。先ほどの「農村共同炊事」が国の方針に飲み込まれていった話から思うに、そうならないためには、子ども食堂の1つ1つが独自の顔、独自の活動を持つことが大事であり、「子ども食堂」という語で一括りされない多様さを持つことではないかと思い始めています。地域の人々の交流の場になることで、行政が何を「子ども食堂」に期待していくのかにかなり敏感でなくてはとも思います。