青山忠俊 - 自筆家譜
今回紹介するのは江戸前期に徳川家光の傅役や老中として活躍した青山忠俊の直筆の家譜です。記載時期は不明ですが、徳川秀忠が法名の台徳院と記されていることから、秀忠の亡くなった1632年以降から忠俊の亡くなった1643年までに書かれたものと思われます。
家譜
*便宜的に段ごとに数字をふります
1. 青山喜太夫殿菩提所者
青山喜太夫は忠俊の祖父・忠門です。菩提寺は岡崎の大林寺にあります。
私は確認にまだ行かれていないですが、下記ページによると青山喜三郎忠世の墓が確認できるようです。忠世は忠門の父にあたります。
2. 播磨守殿
播磨守は忠俊の父・忠成です。諸大夫とは、武家では五位相当の者を言います。慶長10年(1605)、秀忠が将軍になった時に忠成が諸大夫になったと書かれています。ただし、この年数が正しいかは不明です。『寛政重修諸家譜』によれば、文禄3年(1594)4月、忠成は従五位下 常陸介に叙任と記されています。また、忠俊が慶長5年(1600)11月17日、従五位下 伯耆守に叙任していることから子よりも遅く諸大夫になったとは考えにくいです。
3. 我等 台徳院様江
忠俊が初めて秀忠に仕えた時期からの話が記載されています。忠俊は7、8歳の時に秀忠に仕えました。家康と秀忠が浜松城から駿府城へ移動した時に一緒に従っていきました。天正18年(1590)には、北条氏の小田原征伐のお供をしたようです。翌年から秀忠は人質として京に3年間いることになります。ここには忠俊の兄・藤七(忠次)がお供しています。忠俊は玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)に残っています。玉縄にいることから、この頃には家康の関東移封は完了しているようです。この翌年に忠俊も京の秀忠のもとへ行っています。忠俊は秀忠から藤五郎の名をもらったようです。
4. 慶長十年巳ノ歳
慶長10年(1605)、秀忠が将軍となると忠俊は組頭として上洛のお供をしたようです。
5. 台徳院様ゟ
父の忠成が秀忠から茶壺を拝領しました。その日は終日、忠成の機嫌が良かったと記載されて微笑ましい内容です。
6. 我等諸大夫ニ
忠俊が諸大夫になったのが慶長15年と書かれていますが、前述の通り、慶長5年(1600)11月17日、従五位下 伯耆守に叙任の記録があるので年数の記載ミスと思われます。
7. 御書院番頭
忠俊が書院番頭になったことが書かれています。書院番は慶長10年に設けられた職で最初に番頭に任命された内の一人です。
8. 将軍様御宮参
ここでの将軍様とは徳川家光のことです。家光の幼少のお宮参りの帰りに忠成のもとへ寄ったそうです。委細は母が知っていると書いているので忠俊はよく把握していないようです。これを書いた時に忠俊が50,60代とすると、母は70,80代で存命と思われるので、長命であったようです。
9. 崇源院様
崇源院は秀忠の正室の江のことです。江が上洛するに際して江戸城から出立するには呪術的に方角が良くなかったようです。忠成の屋敷に一泊することで忌む方角を祓っているようです。秀忠も泊まりはしませんでしたが、忠成の屋敷を訪れたようです。慶長12年から14年のものと推測される江戸始図によれば、忠成の屋敷は江戸城のすぐ近くにあります(赤枠部分)。
10. 将軍様江
忠俊が家光のもとに付いたのは元和5年(1619)です。翌年には忠俊は岩槻城を拝領します。拝領は直々に上意をもらったようです。元和8年の家康の七回忌には日光へ参拝した秀忠が行きと帰りに岩槻城に宿泊しています。
11. 大坂御陣之刻
組中善悪之書付が何のことかよく分かりませんが、おそらく大坂の陣の時の戦功を忠俊がまとめているのではないかと思います。
まとめ
全体的な内容としては秀忠と忠成、忠俊の親子との関係が良かったことを強調しているように見受けられます。一番気になったのは将軍の呼び方です。「将軍様」と呼ぶのは初めて知りました。上様以外の呼び方がこの時代にはあったということでしょうか。