古文書初心者

古文書の勉強始めたばかりの初心者です。歴史好きな方や古文書読める方と知り合えればと思います。私の記載内容に間違いがあれば、コメント頂けると助かります。

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マガジン

  • 領知宛行状関連の書状

    主に江戸幕府が大名に発行した領知を認める書状を紹介しています。

最近の記事

孝明天皇の天盃

今回紹介するのは幕末に孝明天皇から賜った天盃についてです。天盃とは天皇から賜った盃のことを言います。 文久三癸亥年二月御上洛 六月三日御暇御参内之節供奉御参内被遊候付御頂戴之天盃 天盃は内侍が天皇に代わり酌を行い、その盃から、かわらけ(土器)に移して酒を飲みます。かわらけは素焼きの陶器です。 元治元甲子年正月御上洛 五月二日御暇御参内之節供奉御参内被遊候付忠敏公御頂戴之天盃 厳密には元治元年(1864)の正月は文久4年の正月で、旧暦の2月20日に元治に改元されます。忠

    • 犬山城主のお土産(尾州焼)

      今回紹介するのは幕末の犬山城主であった成瀬正肥が実家の篠山藩青山家に土産として持って来た尾州焼の硯蓋です。硯蓋とは食べ物を乗せる盛り皿のようなものです。 成瀬正肥は、老中であった青山忠良の三男で、尾張徳川家附家老の成瀬家の養子となりました。現在は国宝の犬山城は、明治28年(1895)に正肥の所有となり、平成16年(2004)までは代々成瀬家の個人所有でした。 硯蓋の入っている箱の裏には経緯が書かれています。 万延元年(1860)4月に正肥は江戸へやって来て、青山家へ土産と

      • 平緒(文政5年)

        今回紹介するのは、文政5年(1822)の平緒です。平緒は束帯に太刀を帯びるための緒です。腰に巻き、前掛けのように前に垂らします。 文政五午歳春 御平緒垂 紫緂御定紋唐草 紫緂(むらさきだん)とは白紫白紫と交互に色を使うことを言います。定紋は、ここでは青山氏の定紋の家紋である銭紋のことです。唐草は植物の蔓が絡んだデザインのことをです。この平緒では銭紋から植物が生えているようなデザインになっています。 平緒には古来からの続平緒と、垂が分割され簡略化された切平緒があります。こ

        • 丹波亀山藩の領知目録(元禄15年)

          今回紹介するのは、元禄15年(1702)9月28日付けで、江戸幕府が発給した領知目録について紹介します。浜松から丹波亀山への転封に関するものです。当時の老中の花押や黒印が記されているので、歴史に興味がある方は必見の内容です。 領知目録は江戸時代に将軍が大名や寺社などに土地の領知を認める朱印状と共に発給されるものです。国名、群村が記載されて群単位で石高の合計が記載されています。こちらは浜松城主だった青山忠重が丹波亀山への転封を命じられた際の領知目録です。 (村名は省略) 丹

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        • 領知宛行状関連の書状
          9本

        記事

          内藤家蔵書1(青山忠俊書状の写し)

          今回紹介するのは江戸後期の寛政年間(十一代将軍・徳川家斉の治世)の遠江国豊田郡貴平村の郷士、内藤弥市右衛門徳明の家蔵だった書状の写しです。6冊の書冊の入った箱には経緯が書かれています。書状自体は、寛永年間(三代将軍・徳川家光の治世)以降のものと思われます。 寛政四壬子年三月中旬遠州豊田郡貴平村之郷士 内藤弥市右衛門徳明 篠山江 参越之節家蔵之書数品携来 忠裕君御覧有則模写被 仰付所謂 泰雲君 幡龍君 本光君 弥八郎様 五郎兵衛様 藤九郎様 大蔵少輔幸成様 大膳亮幸利様 播磨

          内藤家蔵書1(青山忠俊書状の写し)

          常陸国江戸崎の領知目録(江戸初期)

          今回紹介するのは、江戸初期に江戸奉行・関東総奉行として活躍した青山忠成が慶長8年(1603)に拝領した江戸崎(茨城県稲敷市)の領知目録です。 【内容物】 ・江戸崎領知目録 ・領知目録の参考書 内容物は江戸崎の領知目録と、この目録の委細を宝暦13年(1763)に明記した参考書です。「圓相君江戸崎領地目録参考書」の圓相君は忠成の法名・圓相院殿から来ていると思われます。 領知目録括弧() は付箋部分 内修理は内藤清成と思われます。忠成と清成は家康の小姓として同じような伝説を

          常陸国江戸崎の領知目録(江戸初期)

          青山忠俊 - 自筆家譜

          今回紹介するのは江戸前期に徳川家光の傅役や老中として活躍した青山忠俊の直筆の家譜です。記載時期は不明ですが、徳川秀忠が法名の台徳院と記されていることから、秀忠の亡くなった1632年以降から忠俊の亡くなった1643年までに書かれたものと思われます。 家譜*便宜的に段ごとに数字をふります 1. 青山喜太夫殿菩提所者 青山喜太夫は忠俊の祖父・忠門です。菩提寺は岡崎の大林寺にあります。 私は確認にまだ行かれていないですが、下記ページによると青山喜三郎忠世の墓が確認できるようです

          青山忠俊 - 自筆家譜

          青山氏の家紋 - 葉菊と葉菊草

          今回紹介するのは青山氏の家紋である、葉菊と葉菊草について紹介します。下記の記事の続きとなります。 葉菊葉菊は青山菊とも呼ばれ、青山銭と並び定紋のうちの一つです。青山氏の遠祖と伝わる花山院師賢が南朝より賜ったことが由来とされています。他家も菊の紋を賜ったことから、区別のため枝葉2枚を付け加えたと云われています。 様々な葉菊のデザイン 葉菊紋は時代とともに変化していますが、大枠の決まりごとはある程度存在します。明治になって旧篠山藩士の市野真徳によって書かれた青山氏の家譜、『

          青山氏の家紋 - 葉菊と葉菊草

          尼崎城主の手紙

          今回紹介するのは、寛永18年(1641)3月3日に摂津の尼崎城主だった青山幸成が甥の青山宗俊に宛てた手紙です。 差出人:青山大蔵少輔(幸成) 宛先:青山因幡守(宗俊) 寛永18年に幕府は大名や旗本に対して各家の系譜の提出を命じました。(寛永諸家系図伝) 後述する内容から察するに宗俊は、叔父の幸成に系譜作成について相談したと思われます。この手紙はそれに対する幸成の返信となります。 ちなみに文の最初の方の文字の間隔が短いのは追伸が書き足されているからです。当時の追伸は文の最

          尼崎城主の手紙

          改易された大名の手紙(その2)

          今回紹介するのは、江戸前期の父から息子に宛てた手紙です。 前提として大名だった青山忠俊は改易され、相模今泉(現在の神奈川県海老名市)で蟄居していました。息子の宗俊も連座して蟄居していましたが10年ほどして許され、江戸で出仕しています。下記の手紙のその後なので、少なくとも寛永11年(1634)から数年は経過しています。 手紙 元々、手紙が包まれていた紙なのか 伯耆守様御自筆 因幡守様江御教訓状 と書かれたものも保管されています。 差出人:伯耆守(青山忠俊) 宛先:因幡守(

          改易された大名の手紙(その2)

          青山氏の家紋(青山銭)

          今回は松平、徳川氏の家臣である、青山氏の家紋について書かれたものを紹介します。青山銭の意味(由来?)が書かれたものです。 青山銭青山氏の家紋は青山銭と言われるように銭であり、丸に四角といいう非常にシンプルなデザインです。 三河松平高月院第三世法誉上人の直筆のようです。この方がいつの時代の人かは調べても分かりませんでした。ただし、高月院は松平氏の菩提寺なのでそこに聞けば分かるかもしれません。 外情丸き時は人と 交わることよし 内の心角 成時は己がみさほ 正しこの二つかさね

          青山氏の家紋(青山銭)

          家康の軍令(慶長5年 会津征伐)

          今回紹介するのは慶長5年(1600)7月7日に発せられた徳川家康の軍令です。会津征伐前に配下の武将たちに向けた陣中の禁止事項が記載されています。 軍令全部で15ヶ条あります。もともと1枚であったと思われますが、紙が剥がれて2枚となっています。     軍法事 一 喧嘩口論堅令停止畢若違背輩に   をいては不論理非 双方可令成敗其上或   傍輩或知音之好を以令荷擔者本人ゟ可為   曲事之間 急度可加成敗 若令用捨者 縦   雖後日相聞 其主人可為曲事事 一 味方之地にをいて

          家康の軍令(慶長5年 会津征伐)

          大名に親戚関係を証明するのは命がけ?

          今回紹介するのは、戦国時代に岡崎の百々村にいた青山氏から分家した清水氏の子孫である清水小左衛門教正が、200年ほど経った江戸中期に青山氏に親戚であることを証明しに行った際の文書となります。 清水氏は徳川家康に仕えた青山忠門の弟である俊成(初めは青木のちに清水に改姓)から、代々百々村の土地を守っていました。青山氏は家康の関東転封と共に関東へ移り、清水氏とは疎遠になってしまったようです。 そんな清水氏の子孫である教正は明和4年(1768)に当時、丹波篠山の大名であった青山忠高のも

          大名に親戚関係を証明するのは命がけ?

          武田氏との戦で負傷した三河武士の遺書

          今回紹介するのは元亀2年(1571)に武田氏との戦の傷が原因で亡くなったとされる三河武士の青山忠門の遺書です。忠門は岡崎城から4kmも離れていない百々村を有していた武士でした。江戸時代後期に書かれた寛政重修諸家譜によると徳川家康の父である松平広忠の頃から仕えており、今川氏に取り込まれた期間を除けば一貫して松平・徳川に属して戦っています。 寛政重修諸家譜(86コマから88コマまで忠門の紹介) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577463

          武田氏との戦で負傷した三河武士の遺書

          松平清康が発給の領地判物写

          今回紹介するのは天文2年(1533)5月に松平清康が発給したとされる領知判物の写です。清康は徳川家康の祖父にあたる人物です。 写作成の経緯 この判物の写が作成された経緯は、明和4年(1767)3月に丹波篠山の藩主だった青山忠高が親戚にあたる清水小左衛門に写を送ったためです。 上記はその写を送ったことの証書の写です。 授玉君の遺書2通と天文2年の判物1通です。授玉君は青山忠門のことで武田氏の三河侵攻の際の戦で亡くなったとされる人物です。清水氏は青山氏から派生した家となります

          松平清康が発給の領地判物写

          扇(鶴沢探春、原在中、丸山応端 作)

          今回紹介するのは天明8年(1788)と文政10年(1827)に宮中から頂戴されたとされる扇です。当時活躍した絵師の絵が描かれています。 同封物天明8年(1788)に正親町前大納言(正親町公明)より通達を受けています。この年は天明の大火によって京都の大部分は焼けてしまいました。その際、篠山城主の青山忠裕は御所の警衛にあたっています。それに対して労をねぎらう書状と扇子を頂戴しています。 御造営中勤番大儀 思召承仍拝領物被 仰付候 ご造営中勤番大儀思し召しうけたまわる よって

          扇(鶴沢探春、原在中、丸山応端 作)