青山氏の家紋 - 葉菊と葉菊草
今回紹介するのは青山氏の家紋である、葉菊と葉菊草について紹介します。下記の記事の続きとなります。
葉菊
葉菊は青山菊とも呼ばれ、青山銭と並び定紋のうちの一つです。青山氏の遠祖と伝わる花山院師賢が南朝より賜ったことが由来とされています。他家も菊の紋を賜ったことから、区別のため枝葉2枚を付け加えたと云われています。
様々な葉菊のデザイン
葉菊紋は時代とともに変化していますが、大枠の決まりごとはある程度存在します。明治になって旧篠山藩士の市野真徳によって書かれた青山氏の家譜、『仰青録』によると花弁の数が16が嫡家、12が末家と定義されたようです。ただし、代々の好みより変化したり、分家の中でも16枚の花弁を使用している家もあります。ちなみに市野真徳は事故により両手を失い、腕に筆を巻き付けて『仰青録』の執筆を続けた人物でした。
江戸時代前期には、後の浜松藩主の青山忠雄が父・宗俊に許しをもらい、紋を改めたこともあるようです。さらに、その紋の使用を分家である尼崎藩主の青山幸利が宗俊に許しをもらい使用した記述も見られます。
葉菊草
葉菊草の紋は「丸に葉菊草之花」と云われるものです。『寛政重修諸家譜』によれば、紋の由来は徳川家康が幼少の頃、岡崎の法蔵寺に訪問の際に見つけた花とされています。その場にいた青山忠門に花の名前を聞くと、忠門は「葉菊草」と答えました。それを聞いた家康はこの花を紋として使うよう命じたという、何とも信じがたい話です。また、「ハギクソウ」とは菊ではなく、トウダイグサ科の植物です。現在は絶滅危惧種で生育地は限られた地域にしかなく、愛知県の渥美半島です。
葉菊草の紋は戦国時代から江戸初期(大坂の陣)までは青山氏の使用が見られましたが、そこからしばらく使用されなくなります。長年使用されなかったことで、一族の中でもこの紋が何であるか分からなかったようです。梅のような花と言ったり、葉菊と間違えることもあったようです。再び使用されるようになったのは江戸後期の文化・文政時代の篠山藩主の青山忠裕の頃です。ここで初めて紋の名前を「葉菊草」と号したと前述の『仰青録』には記載されています。